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課題テーマに挑戦「銚子港」第18回

2023年10月17日

 課題テーマに挑戦「銚子港」第18回

シンガー・ソングライターの谷村新司さんが、今月の8日に亡くなったとのニュースが日本中を駆け巡った。昨日の事である。

いくら素晴らしい人でも、いつかは寿命には逆らえない時が来るのだと、改めて思い知らされた。私たちは日常いつも誰かと繋がっている。尊敬する人や心から愛する人など、多くの人と繋がっている。その繋がっている糸が太いものか細いものかは誰にも分からない。だが縁で結ばれていることに感謝して、その糸を大切にして生きて行きたいと思う。

すっかり朝夕涼しくなり、先日までのあの酷暑は何処へ行ってしまったのだろうか?

近くを散歩していると道端に、待ち焦がれたコスモスが咲いていた。

ピンクのコスモスに上にはバッタが乗っていた。

白いコスモスも清廉な風情があると思う。

アイキャッチ画像は、「ススキと青空と筑波山」と名付けた。

  物語 想い出の銚子電鉄外川駅(第11話)

【由香里さんからの手紙】

この手紙の件を話す前に、私はある事実を記しておきたいと思う。

前回では触れなかったが、実は東京から萩に向かう由香里さんを東京駅で見送っていたのだった。

どうしてそれが可能だったのか?それは、退職の数日前に、谷口社員が由香里さんに萩について尋ねていたからだった。

「それで、由香里さん、確か萩に行かれるのは、17日の水曜日だったわよね?東京駅を発つ新幹線は何時なの?」

それに対して由香里さんが答えた。

「はい、父が申しますのには、『東海道・山陽新幹線のぞみ19号』に乗ると聞かされています。ですので、蒲田駅を朝8時頃に出ます」

谷口社員は、少し寂しそうに言った。

「ちょうど会社の休みの日なので、東京駅まで見送りたいだけど、ごめんなさいね。生憎、私はこの日出掛ける用事があって、残念だけど蒲田駅で見送りさせてもらうわね」

続いて、木村社員も言った。

「私も、申し訳ないけど、蒲田駅で見送らせてもらうわね!」

私は、倉庫に行く振りをして、急いでポケットから手帳を取り出しメモをした。そして、「東京駅発のぞみ19号。蒲田駅8時に東京駅に向かう」と記した。

その情報から、私は「東海道新幹線・山陽新幹線のぞみ19号18番ホーム、9時12分発」であることを知った。必ず、見送りに行こうと決心した。だが、蒲田駅では、職場の人に会ってしまう。東京駅の新幹線のホームに決めた。

私は、由香里さんのご家族とは面識がない。まして、由香里さんとの職場での付き合いはひと月ほどだ。恋人という訳でもない。表立って見送りをする勇気はなかった。新幹線のドアが開く10分前くらいに19番線ホームに行き、由香里さん親子を探した。直ぐ分かった。

だが私は、由香里さん親子に近付くことはしなかった。いや、出来なかった。いよいよ、三人が新幹線に乗り込もうとした時、私は急いで由香里さんの乗るドアに走った。

そのドアの前に走り寄った時、座席に着こうとした由香里さんと、車窓を隔てて一瞬目が合った。由香里さんの驚いた様子を、私はどう表現したら良いのだろうか?優れた作家なら容易いことかも知れない。だが、悔しいけれど私には困難だ。

新幹線が動き始めると、窓際に座った弟さんの前を前かがみになり、由香里さんは窓越しに大きく手を振ってくれた。私も、夢中で手を振って応えた。その時間は、僅か数秒だったかも知れない。

由香里さんの乗った「のぞみ」が見えなくなった私は、力なく京浜東北線のホームに向かった。

ざわめく雑踏の中をうつむいて、歩いた。

私には美咲ちゃんがいる。心から、愛している美咲ちゃんがいる。なのに、この寂寥感は何なのか。

前書きが大分長くなってしまったが、それでは本題に入ろうと思う。

ある日アパートの郵便受けに、遥か遠い萩から私への手紙が届いていた。もちろん差出人は渋谷由香里さんだ。私が銚子で美咲ちゃんから貰った時の手紙のように、分厚い封筒には何枚もの切手が貼られていた。

私は、由香里さんの手紙を丁寧に持ち、アパートの自室に入った。少し胸が高鳴った。思わず正座をした。それから深呼吸をして封筒を開けた。

由香里さんからの手紙は、丁寧な文字で以下のように記されていた。

【由香里さんからの手紙】

お久しぶりです。

宮内さん始め宮内不動産の皆さまは、お変わりなくお過ごしでしょうか。もう萩に来て、約半月になります。萩は夏真っ盛りです。

短い間でしたが、宮内さんには仕事以外でもお世話になりありがとうございました。それと共に、たくさんの思い出を頂きました。この思い出が、私の今後の生きる支えになるような気がしています。

「今後の私の生きる支え」を頂いた感激とお礼を申し上げたくて、この手紙を書いています。少し長くなりそうですが、最後までお読み頂けましたら幸甚の極みでございます。

父に転勤の内示があったのは5月の初めでした。6月下旬までに、萩支社の営業部長として赴任して欲しいというお話しのようでした。

6月も半ばに転勤など、普通は考えられないと父は言いました。ですが、それ相応の事情があったようです。萩支社の営業部長が長期の病気療養をしなければならない事態となったらしいのです。萩支社は、長年の不景気であまり良い業績を上げられずにいたらしく、是非とも本社から優秀な人材を送って欲しいと支社長からの強い要請があったのだそうです。

父が萩の営業部長に何故選ばれたのかは分かりません。ですが、現実に本社の人事部長から話があった以上、父も真剣に将来を見据えた上で転勤を承諾したのでした。

私は宮内さんが入社されたその日の晩に、父に提案をしました。私は既に退職届を出していたからです。

「お父さん、私、考えてみたんですけど。宮内不動産の社長は『家の事情なら仕方がないかも知れない。だが、もし出来たら辞表を撤回してくれないか?何とかこの会社に残ってくれないか?』とおっしゃっていたんです。

私と陽斗(はると)がこの家に残って、このまま生活を続けるということは駄目でしょうか?陽斗は部活で忙しいから、私が帰って来てからでも夕食は大丈夫だし、それに転校をしてまた新しい環境に慣れるのも、新しい友達を作るのも大変だと思うんです。

私も今の職場がとても気に入っているの。また萩で良い職場に巡り合えるかも不安なんです。このまま私と陽斗で二人、このお家で暮らすのも選択肢の一つだと思うのですが?」

父が萩への転勤を決めた以上、私と弟は父に付いて萩に行くのは当たり前だと思ってはいました。ですが、私は、弟と二人東京に残ることが何とか出来ないものかと思ったのです。

父や弟には話せませんが、その訳は宮内さんと一緒に「宮内不動産」で、このまま仕事を続けたいと思ったからです。どうしてお会いした日にそう思ったのか、少し恥ずかしくもありますが、これからお話しさせて頂きますね。

それから、いつでしたか蒲田駅で宮内さんの前で涙を流したことがありました。その時の訳もお話しさせて頂きます。

私は、宮内さんが初めて宮内不動産に出社された日に、仕事が済んだその帰宅途中、商店街を夕食の食材を求めて歩いていました。その時ふと、幼い日に母とこの商店街を歩いたことを想い出しました。それは北風が吹く寒い日の夕方でした。母は『由香里、夕飯は何が食べたい?』と聞いてくれ、私が『おでんが食べたい!』と言いましたら、すかさずおでんの具材を買ってくれました。

そのやさしい母を思い出した私は、多くの人々が行き交う商店街の隅に立ち止まり、いつの間にか頬を伝う涙をハンカチで拭っていました。

その時です!病院の一室でのシーンが私に蘇えったのです。それは私が中学2年生の初夏でした。病院までの道すがら紫陽花の花が咲き誇っていました。

母の余命はいくばくもないと、私は父から聞かされていました。いつものように学校から真っすぐに母の枕元に駆け付けたある日のことです。

母は病室のベッドの中から、私を呼び寄せて言いました。

「由香里、お前の花嫁姿を見ないで死ぬのは、悔しい!ひと目見てから、安心して死にたかった。それだけが心残りだ。弟の陽斗(はると)の面倒を、由香里、申し訳ないけどよろしく頼むね。今まで、ありがとうね」

母親は、苦しい息遣いながらも、そこまで言うと安心したように眠りに就きました。

私は恋もしたことのない幼い中学生でした。花嫁姿など考えたこともありません。ですが、その時誓いました。「いつか、母の喜ぶような素晴らしい人と巡り合い、二人揃って母の前で必ず報告します!」と。

それから数日して母は亡くなりました。父に母の言葉を伝えましたが、父は私との会話が家族との最後の言葉だったと言いました。最後の瞬間にも立ち会えなかったことが悔しいと、父は私と弟の目の前で暫らく咽び泣いていました。

初めて宮内さんとお会いしたあの日、母に花嫁姿を見せたいと日頃考えていた、私の理想の方だと思ったのです。宮内さんこそ、生涯を共に歩むに相応しい方だと、私は直感的に確信したのです。私の心は舞い上がりました。まさに運命的な出会いだと強烈な印象を受けたのでした。もちろん、私の勝手な思い込みですが。

父の誕生日祝いのネクタイを蒲田駅ビルの紳士服売り場で探して頂いた際、別れ際に「明日、東京を案内させて下さいませんか」とお願いをしました。更に「私とお友だちになって頂けませんか?」と図々しくもお尋ねを致しました。私は激しい動悸に耐えながら、やっとの思いで申し上げたのですが、宮内さんは「はい、よろしくお願いします」と答えて下さいましたね。

私は信じられない思いでした。母の喜ぶ顔が浮かんで来ました。やさしかった母が、宮内さんをとても気に入ってくれたような気がしたのです。母の「応援しているからね!」という声が聴こえたような気がしたのです。そうしましたら「宮内さんとお友だちになれる!」との喜びから、急に病室での母の面影が浮かんで来て、不覚にも涙を流してしまったのです。宮内さんは、さぞ驚かれたことと思います。

もしかしたら仏壇の母の写真に、宮内さんと二人で笑顔の報告が出来る日が来るかも知れないと夢見たのです。

ですが、残念なことに私は宮内不動産に対し、既に退職願いも出した後でした。遥かに遠い山口県の萩への父の転勤に伴い、私と弟は父に付いて行くことが決まっていたのです。ですので、何とか宮内不動産に、この東京にいたかったのです。

父は少し考えているようでしたが、呟くように言いました。

「そうだなあ、お前たちに迷惑をかけるより、お父さん一人で単身赴任した方が良いかもしれんな」

父は自分の都合よりも、私と陽斗を優先して考えてくれたのでした。ですが、暫くして父は毅然として言いました。

「由香里と陽斗には申し訳ないが、お父さんは二十歳前のお前たち二人を残して遠い萩に単身赴任する訳にはいかない!まして由香里は結婚前の娘だ。馬鹿な人間がいないとも限らない。お父さんは、お前たちが心配で仕事に集中すら出来なくなってしまう。

お父さんの勝手かも知れないが、頼むから一緒に萩に行ってくれ!」

こうして、家族そろって萩への転居が決まりました。

その夜から私たち家族は、東京から遥か遠い萩への転居を不安な思いで過ごしました。ですが「案ずるより産むが易し」の言葉通りでございました。

こちらに赴任してからも父はお風呂上りに、私と弟の前で美味しそうにビールを飲みます。

親切な上司や屈託のない同僚、そして気遣い溢れる部下たち、それらの人々とまるで昔からの仲間のようだと、父は頬を少し赤く染めて自慢そうに話します。毎日が嬉しくて堪らないという様子です。

弟と言いますと、昔から図々しい性格で、新しい輪の中に臆することなく入れる逞しさを持ち合わせています。もう既に沢山の仲間が出来たようです。

私はと言うと、弟のようにはいかない引っ込み思案の性格です。萩に越した翌日から社宅の奥様方へ、心ばかりのお品を添えて挨拶回りを致しました。私たち家族のように、東京や九州からの転勤で越された方もたくさんおられて『お互いに助け合いましょうね!」との労いの言葉をたくさん頂きました。とても感じの良い方ばかりで、私も安心いたしました。

私たち家族は萩で、平穏な生活を送っておりますことを先ずお伝えさせて頂きました。

ここから私の宮内さんから頂いた『心の支え』についてのお話をさせていただきますね。

繰返しになるかも知れませんが、宮内さんとお会いした、宮内さんが初出社された日は既に退職届を出した後でした。東京に残ることも叶わぬ私には、宮内さんとご一緒できる時間はあまり残っていないのだと知りました。正直に申し上げますが、二人だけになる機会が訪れることを強く願っておりました。初めて父の誕生日のお祝いのネクタイ選びを蒲田駅でお願いした時、私は忘れ物をして会社に戻ろうとしていた訳ではありません。方便でした。宮内さんに近付きたくて、退社後宮内さんが通ると思われる帰り道でお待ちしていたのです。

その後、宮内さんと山手線一周のデートも出来ました。宮内さんは、私の食べきれず残したお皿のハンバーグも美味しそうに食べて下さいました。私は、それだけでもう満足でした。宮内さんとの楽しいひと時を心の支えに、萩で生きて行こうと決心しました。

小賢しい私を、どうか許してくだい。本当にありがとうございました。長くなりました。もうこの辺で終わらせて頂きます。

ですが、最後に一つだけお話しさせて頂きたいことがあります。

萩に向かう東京駅の新幹線の19番線ホームでドアが開くのを待っている間、もうこの東京に来られる機会はないのではないか、もう宮内さんと逢うことは叶わないのではないかと、私の心は重く沈んでいました。

ドアが開き、私たち家族は乗り込みました。指定の座席に座ろうとしたその瞬間でした。思わず私は叫び出しそうになりました。何と、宮内さんが車窓の向こう側で私を見つめているではありませんか!

私はその瞬間、父も弟も忘れました。夢中で手を振ってしまいました。いよいよ新幹線が走り出し、宮内さんの姿が見えなくなると、私の心が叫びました。

「また逢えるわよね。また逢えるよね!宮内さん!」

私は父と弟の前でしたが、涙を止めることは出来ませんでした。

弟が後日教えてくれましたが、私の様子を見た父は唇を噛んで涙ぐんでいたそうです。

有難うございました。これで私の長い手紙を終わりに致します。私は、この手紙で何を話そうとしたのか、頭が混乱していて良く分かりません。脈絡がどうなっているのかも分かりません。

明日の朝に投函しようと思いますが、後で後悔するような気も致します。ですが、私の性格ではポストに入れる瞬間戸惑い、そしてその手を引っ込めてしまいそうです。

ですので、このまま封をして明日の朝投函します。その瞬間は目をつむります。

ご返事の必要はありません。私の気持ちを知って頂けたら、それで十分なのです。

宮内さんがお健やかな日々を、そして益々ご活躍されます様にと、先日、松陰神社で祈願いたして参りました。

いつも陰ながらお祈りいたしております。          渋谷由香里

 

手紙を読み終えた私は、座ったまま呆然としていた。どうすれば良いのだろうか?返事を書くとしても何と書いたらよいのだろうか?

美咲ちゃんの悲しい顔が浮かんでしまった。                    つづく

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