課題テーマに挑戦「増毛町」第3回
2017年02月16日
課題テーマに挑戦「増毛町」第3回
課題テーマに挑戦「増毛町」も今回で第3回となります。今回は、「石狩挽歌」で有名な「鯡漁」の歴史を少し勉強したいと思います。その前に、2枚の画像をご覧頂きます。上の画像は、第1回で載せました雄冬海岸で、道路は国道231号線だと思います。
この画像は、「JR留萌線の増毛駅を出て、海沿いを走る早朝の一番列車」というタイトルの画像です。ここは、多分増毛漁港なのではないかと思っております。早朝の陽光を浴びた増毛漁港は、輝いて見えます。とても残念なことですが、昨年の12月4日から留萌本線(増毛~留萌間)は廃線となっております。
この画像は「増毛観光情報局」様からの転載です。私は釣りが大好きで、ヘラブナ釣りは10年以上夢中でやりました。もちろん海釣りも好きで、大洗から船で沖合に出たこともあります。その時は、仲間10数人のうち船酔いをしなかったのは私だけだったと自負しております。また神奈川県の金沢八景まで、アイナメ釣りに足を延ばしたこともあります。この増毛港内での釣りも楽しそうですね。
さっそく前回の約束通り、増毛町の鯡漁の歴史を少し勉強したいと思います。この情報も、増毛町ホームページから抜粋したものです。
1 鰊漁業の変遷
角網の使用
明治20年代より30年代にかけて、増毛の漁業は大躍進を遂げました。その主力は鰊であり、要因は、建網が行成網から角網に代わっていったことによるものです。
鰊の北上
全道的に鰊の水揚げ高は、大正初年以降減少の一途を辿りました。大正2年の百万石が大正末には70万石になり、昭和10年前後には20万石程度まで減少しています。特に昭和13年(1938年)は、1万7千石と未曾有の大凶漁でありました。
地域的に見ても明治時代の日本海沿岸全域を中心にオホーツク海の網走、根室方面にも相当の漁獲がありましたが、大正期に入り檜山地方が大正9年(1920年)以降、渡島地方は大正14年(1925年)以降、漁獲が皆無となりました。昭和期に入ると後志管内やオホーツク海の根室においても減少し皆無となりました。以降、鰊漁の主要な地域は日本海北部海岸、石狩、留萌、宗谷間となりました。これは鰊の北上によるものです。
増毛町の鰊漁獲量の推移
1,887年明治20年 21,571t 1897年明治30年 26,218 t 1907年明治40年 12,150 t 1917年大正 6年 5,775t 1927年昭和 2年 32,798t
1937年昭和12年 25,259t 1947年昭和22年 25,403t 1950年昭和25年 11,573t 1954年昭和29年 7,886t 1955年昭和30年 1,481t
このような推移を示しています。この一連の数値から昭和25年あたりから大きな陰りが見えます。(水産庁北海道区水産研究所、北海道水産試験場調べ)
鰊漁の衰退
増毛には、江戸中期から村山伝兵衛がマシケ場所を開いて以来、昭和30年(1955年)頃までの200年間、鰊漁に依存してきました。戦後の鰊漁は、昭和29年(1954年)頃から急激に漁獲は減少し、昭和33年(1958年)を最後に全く獲れなくなりました。
ここに増毛の歴史の中で様々な関わりをみせてきました鰊漁は終焉を迎えました。町から鰊漁が消えることは非常に大きく、この穴を埋める様々な代替漁業が模索されるようになっていきました。
漁業の変遷
鯡漁の衰退の後、増毛町漁業協同組合は、必死になって生き残りのためにえび漁業・スケトウダラ漁と変遷し、養殖・増殖業の後押しと漁村の近代化へと邁進して行くのでした。
<2000年代~現代:(平成12年~現代)>
これからの増毛漁業経営の在り方
現在の増毛漁業の中心を担っているのは、「えび」、「タコ」、「ホタテ」であり、これらの魚種に関しては、資源管理・安定生産といった技術が確立されてきました。増毛漁協は、漁獲物に対する付加価値創造に早くから取り組んできた実績から煮ダコ処理施設や秋鮭の鮮魚出荷、甘えびの築地方面へ独自出荷などが評価されました。平成15年(2003年)には、管内漁協が協力して「管内お魚普及協議会」が発足し、道内都市部住民に対して留萌管内の鮮魚をPRする取組みを進め好評を得ました。こうした産地のブランド化を確立する努力の継続が増毛を始めとする管内漁業の再生につながることが期待されています。
とても大雑把ですが、増毛町の鯡漁の歴史を北海道水産試験場のデータから抜粋しました。「課題テーマに挑戦」の作詞において、何故こうまでする必要があるのかと思われる方もおられるかも知れませんが、うわべだけの底の浅い作詞にならないようにしたいと思うからです。次回第4回目の構想については、まだ白紙です。