小鳥

ブログ

課題テーマに挑戦「鳥海山」第33回

2018年01月03日

 課題テーマに挑戦「鳥海山」第33回

やっと終わりました。「鳥海山物語」のことです。今朝は、6時少し前から書き始め、今終わりました。今、ちょうど午前9時半です。随分かかってしまいました。

前に記載した文章を読み返すと、変換での漢字が間違っていたり、表現ではもっと相応しい言い回しがあったのにと、いろいろ気付かされます。書き終えたばかりのものをアップするのはやはり問題があります。この「鳥海山物語」はブログカテゴリーの「創作の小部屋」に後で移し替えますので、その時に再度読み返し修正したいと思います。

今日でこの物語を終わそうと思いましたので、少し長くなってしまいましたが、皆さま最後までお読みくださいますようお願い致します。次回から、この物語のストーリーを基に作詞作業に入りたいと考えています。

 鳥海山物語

最終回       昭和51年9月下旬

総一郎の今回の帰省については、温情ある上司から来月から出社すればよいから、田舎で少し静養して来なさいとの指示を受けていました。

凛々しくそびえる鳥海山は総一郎の帰りを喜んでいるような想いがしました。また刈り入れ前の黄金の稲穂は、都会の喧騒から離れた総一郎に寛ぎを、そして生きる素晴らしさを教えてくれるようでした。完治した胸に、思いっきり吸った空気は、総一郎の体の末端まで酸素が行き渡り、血管さえも喜んでいるような気がしました。

でもそれは一時でした。一刻も早く由美子に逢い、今までの不思議と言うより異常な事態の真相を知り、そして由美子との愛を再確認したいと総一郎は考えていました。場合によっては、今回は両親との縁を切っても、由美子との結婚を宣言する覚悟でした。

畦道を過ぎると集落に入りました。総一郎の実家はもう直ぐです。そう言えば父親の太門の顔を見るのも久しぶりでした。母のしのぶは、結核病棟から消化器病棟へ移った時に来てくれ、とても心配してくれたその時以来です。ですがそれでも3ヶ月振りです。症状や回復度については、お里が逐一電話で報告をしていたようでした。

やっと実家に着いた総一郎を母親のしのぶは、嬉しそうに総一郎の顔を見、それから全身に目をやりました。

「総一郎、良かった。本当に良かった!」

しのぶの目から、一粒の大きな涙が頬を伝わり落ちました。

「夕飯まで、離れの部屋でゆっくりしていたら。お父さんも夕方には帰って来るだろうから。」

総一郎は、お里の姿が見えないことに気付き母に尋ねました。

「そう言えば、お里の姿が見えないようだけど?お里には、随分世話になったよ。こうして元気になれたのも、お里のお蔭だよ。」

総一郎は、お里にお礼を言いたかったのです。母は、一瞬驚いたようでしたがそれでも落ち着いて言いました。

「お里は、実家に昨日帰ったよ。お前の荷物を片付けたり、部屋の掃除をしてから、暇をくれと言い出したんだ。お前がいないと、総一郎も寂しがるし、もうしばらくいてくれないかと話したが、どうしても家に帰りたいと言い張って帰ってしまったんだ。」

いつもは歯切れの好い話し方をする母に似つかない、苦渋のような表情が見て取れました。総一郎は、何か胸騒ぎを覚え「少し、部屋で休むから。」と母に告げ、離れの自分の部屋に向いました。

部屋に戻った総一郎の机の上に、白い封筒が置かれ、その傍には何やら包まれた風呂敷が添えられていました。封筒の表には『総一郎さまへ』と書かれ、裏には『お里』と記されていました。

ハサミで切るのももどかしく、指で切り裂きました。

  総一郎さまへ

総一郎さまが全快し、お里は何より嬉しくてたまりません。総一郎坊ちゃんが、5歳の時から私はこの家に奉公に上がり、主に総一郎ぼっちゃんの身の回りのお世話を言い付かっておりました。総一郎坊ちゃんが、ここまでご成長され私の役目も終わりました。

今回、ご奉公を辞めることは辛いのです。近い将来、総一郎坊ちゃんのお子様たちの面倒をこれからは仰せつかれたらと期待していたほどです。

ですが、私にはその資格がないのです。私は、総一郎坊ちゃんが大好きです。総一郎坊ちゃんには、本当に幸せになって欲しいというのが、私の一番の願いです。

でも、私は総一郎坊ちゃんを裏切ってしまいました。心では、総一郎坊ちゃんの幸せを願いながら、その逆のことをしてしまいました。

私は、昨日までは平静を装い、総一郎坊ちゃんの面倒を見させて頂きましたが、本当は申し訳なさで一杯でした。何もかも話してしまいたい衝動に何度も駆られましたが、その度に喉元で何とか抑えました。

これから私が拙いことばで書きますことは全て真実です。ですが、このことは、総一郎ぼっちゃんを不幸に貶めるためにしたことではありません。そのことは、命に代えても誓うことが出来ます。

そして、総一郎坊ちゃんのご両親様も同じです。総一郎坊ちゃんの幸せを第一に考え、僅かでも自らの利益のためにしたことではありません。どうぞ、分かってください。

総一郎ぼっちゃんは東京におられたのでご存知ないことですが、去年の8月頃総一郎坊ちゃんが、仁賀保の社長の家に婿養子に入るという噂が流れました。多分、由美子さんの耳にも届いた筈です。

この噂はご主人様の言い付けで、私と使用人数名が商店での買い物や、盆踊りの祭りの時などに、それとなく言い触らしました。もちろん目的は、由美子さん親子にこの噂を流すためです。そうすれば、可哀そうではあるけれど、由美子さんも総一郎坊ちゃんを諦めるだろうと考えたのです。

私も他の使用人も初めはお断りをしました。当たり前のことですが、総一郎坊ちゃんを悲しませること等出来ないと、皆口々にご主人様に申し上げました。しかし、ご主人様の言うことには、総一郎と由美子さんが一緒になっても、決して幸せにはなれないというのです。人には、分相応というものがあり、今までの暮らしを急に変えることは難しい。由美子さんがこの家に嫁に来ても、お前たちの面倒を見ることはおろか、この家の格式に沿った多くのしきたりを学ぶことも大変なことだ。ただお互いが好きなら、誰でも良いという訳には、当人の為にも、敢えて言わせてもらえばこの家の為にもならないのだと仰るのです。

私らは、学識と言うものが無いもので、ご主人様のいうことは尤もな事なのだろうと納得してしまったのです。由美子さんが、この家の嫁になって辛い想いをさせるのなら、今のうちに別れさせてあげる方が由美子さんのためなら、それが強いては総一郎坊ちゃんの為なら、ご主人様のご指示に従おうと皆で話し合い、実行に移しました。

聞いた話によると、この噂を聞いた由美子さん親子は大分衝撃を受けたようです。その後、由美子さんのお見合いの話しが急にいくつか持ち上がったと聞いています。母親のふみ子さんは、見合いが嫌ならこの家から出て行けとまで由美子さんに迫ったと聞きました。私はその噂を聞いた時、涙が流れてなりませんでした。由美子さんの気持ちを考えると、自分のしたことが果たして良かったのかと、何日も眠れませんでした。

私のしたことは、それだけではありません。もっともっと総一郎坊ちゃんに酷いことをしたのです。とても会ってお話しする勇気がありませんので、総一郎坊ちゃんがこの手紙を読むと思われる頃、私は実家近くの神社でお許しを乞うため、そしてこれから総一郎坊ちゃんと由美子さんがそれぞれの道に分かれても幸せになって頂けるよう、宮司さんにお祓いをして頂くつもりです。そうでもしないと、私は申し訳なさに生きて行くことが辛くてなりません。

もっと酷いことについて話します。奥様からお願いされたことなのですが、総一郎坊ちゃんが肺結核と分かった時に、10日に一度栄養のあるものを病院の隔離病棟に届けるように指示されました。そのついでに、病院から総一郎坊ちゃんのアパートの隣にある酒屋の大家さんから鍵を借り、部屋の掃除も頼まれました。それだけなら何の問題もないのですが、アパートにもし由美子さんの手紙などが入っていたら総一郎坊ちゃんに渡さず、捨ててしまうように言われました。それはあまりに酷いことと思い、こっそり坊ちゃんに渡してしまおうと考えました。

そう考えて、病院に行く前に総一郎坊ちゃんのアパートにより、郵便受けを見ると10通くらい由美子さんからの手紙が入っていました。私は、バックに入れながら、総一郎さんに渡すつもりでした。病院に着いて、受付で果物などを渡す時に、由美子さんからの手紙の袋も一緒に渡そうとした瞬間、二人を別れさせるのは由美子さんと総一郎坊ちゃんのためだというご主人様の言葉を思い出し、取り出そうとした手を躊躇させ、結局持ち帰ってしまいました。

この次には必ず渡そうと思っていましたが、次の訪問日にも数枚の由美子さんの手紙が郵便受けに入っていました。でもやはり持ち帰ってしまいました。こうして由美子さんの手紙は総一郎坊ちゃんには1通も渡さず、全て持ち帰ってしまいました。持ち帰った手紙は風呂敷の中に入っています。もちろん封を切らないままです。全部で20通は軽く超えていると思います。本当は、捨ててしまいなさいとのご命令でしたが、どうしても出来ずに持ち帰りました。

もう一つ、もっと酷いことを致しました。総一郎坊ちゃんが隔離病棟を出てから、投函を頼まれた由美子さん宛ての手紙をポストに入れないままに、捨ててしまいました。ご指示は奥様ですが、捨てたのは私です。

私のしたことで、総一郎坊ちゃんと由美子さんの連絡を絶ちました。このことで、どれほど由美子さんには辛い想いをお掛けしたことでしょう。また、総一郎坊ちゃんを裏切ってしまいました。

聞くところによると、結局由美子さんは周りの圧力に負け、総一郎坊ちゃんと別れることが、総一郎坊ちゃんやお互いの親のためになるのだと、つい10日前に婚礼を済ませたそうです。婚礼の日には、どうしても御嶽神社に別れの挨拶に行くと言い、拝殿の前で涙を流したそうです。

私は、総一郎坊ちゃんに合わせる顔がありません。死んでお詫びしたいくらいです。でも、きっといつか総一郎坊ちゃまにも、ご両親を許し、この日が懐かしく思われる日が来ることと信じています。

どうか、どうか1日も早く立ち直り、明るい将来のために力強く歩まれることを津軽海峡を目前にした北の地で祈っています。                 お里

お里の長い手紙を読み終えた総一郎は、御嶽神社に向って走り出しました。御嶽神社の拝殿の前の賽銭箱には、つい10日前に訪れた由美子の和紙で包まれたお賽銭がそのまま置かれていました。総一郎は、そっと和紙の包みを手に取り自らの頬に当て、涙を流し続けました。

 

時は流れ、昭和の時代も過ぎて、今日は平成30年の1月3日です。仁賀保の会社の会長となり、また市会議員のバッジを着けた総一郎は、秘書の運転する車で約40年ぶりに御嶽神社を訪れました。

車で待つように運転手に伝え、降りようと足を踏み出したその時、拝殿の前に孫と思われる小学生と一緒の総一郎と同い年位の、身なりの良い女性の姿が目に入りました。

財布を手に持って拝殿に近づく総一郎に、女性は振り向きました。齢を重ねたその女性には、昔の面影が変わらずに残っていました。

「総一郎さん?総一郎さんでしょ?」

声を掛けたのは由美子でした。二人の目が合った時、二人の目には涙が光っていました。

雪で覆われた鳥海山は、昔のままの姿で青空に輝いていました。              終わり

原料香月の作詞の小部屋 お問い合わせ


ブログカテゴリー

月別アーカイブ

ページトップへ