ある高齢者の独り言「老いる」
2021年11月23日
ある高齢者の独り言「老いる」
画像は孫の三歳の姿である。可愛くてたまらない。ひらがなを覚え、私が知らない言葉までも知っている。成長が早い。それに比例して、私は老いていく。
国内のコロナウイルス感染者が昨日、今年最少の50名と報道された。私の住む茨城県は1人のみであった。今年の春から夏にかけては、本当に感染が怖かった。
これからどうなるのだろうか?このまま消えてしまってくれたら、どれだけ有難いことだろう。鎖で繋がれたような生活から解放され、美味しいものを食べに出かけたり、旅行にも行きたい。そう言えば、最近、旅行会社からの案内誌が良く届く。
経済が回り、苦労された方々が、コロナ禍以前の日常に一日も早く戻られるよう祈念している。
今回のブログは、高齢者の「老いる」という身近な話を書いてみました。
ある高齢者の独り言「老いる」
何時だったか、だいぶ昔の新聞の広告欄に、作家・曽野綾子氏の新著の紹介があった。その中に「介護とは下の世話のことである」と著者のことばが記されていたのを覚えている。曽野氏のご主人は、もちろん作家で、文化庁長官でもあった故三浦朱門氏である。
経済的に困る筈のないお二人だと思うが、深い想いがあってか、90歳になる三浦氏を85歳の曽野氏は在宅介護をされたようである。この広告に書かれた一言が、今でも強く印象に残っている。
話しは変わるが、私達夫婦はサラリーマンとして共稼ぎの現役時代を送った。子供たちが幼い日、妻の帰りが遅くなる日の夕食は、私が厨房に入った。私は、得意ではないが料理を作ることは好きであった。私の一八番の中華丼を、3人の子ども達は「美味しい、美味しい」と喜んで食べてくれた。
今でも妻が出かけていなかったりした時は、私は厨房に入る。料理を作る時もそうであるが、皿や鍋を洗うときも当然水道水を使う。この水道水を使うとき、古希を迎えた私は、どういう訳か直ぐ尿意を催し、トイレに駆け込むことが多くなった。友人達にも聞いてみたが、皆私と同じであった。老いは、確実に進行していると私は悟った。
五十年以上も昔の話しである。農家の次男として生まれた私は、大勢の家族と共に過ごした。私の祖母(父の母)は、長年の農作業のせいか大きく腰が曲がっていた。その腰のままで、杖をつき近所に良くお茶のみに出かけたりしていた。だが、八十路を迎えて数年の後からは、布団の中で一日中を過ごすようになっていた。
ある日、トイレに立とうとした祖母は、筋肉の衰えからか間に合わず粗相をした。その様子に気付いた父は、祖母を叱った。「なぜ、もっと早く起き上がらなかったのか」と。私は、母がその後始末をしているのを見つめていた。当時中学生だった私は、父は随分酷いことを言うものだと内心思っていた。
それから二十年以上の時が流れた。父もまた、祖母ほどではないが腰が曲がった。ある日、父は誤嚥が原因の肺炎にて入院した。家族は心配したが、暫くして生来の心臓の強さから、無事我が家へと帰還した。が、暫くして再び誤嚥性肺炎を罹患した。今度も命の危機からは逃れたが、我が家へは帰れなかった。介護老人保健施設にお世話になることとなった。
父もベッドに寝たきりとなり、ついにおむつを着ける生活となった。それまでの父は、多弁ではなかったが、私や孫の心配をして良く言葉をかけてくれていた。だが、おむつを着けたその日から、父は寡黙な人となった。以前は、ベッドから半身を起こし、日々書き記していた日記帳も再び開くことがなかった。一度、父が寝ているすきに目を通したことがあったが、窓から見える景色の変化などが記され、特に意味のあるものではなかった。父は、少しでも認知症から逃れようと努力していたのだと思う。
私が見舞いに行くと「やあ!」と声を上げ、右手を少し挙げてくれるが、それからは天井を見上げて押し黙ってしまう。祖母の粗相を叱った昔のことを思い出し、まるで悔いているかのようだった。父には短気の他に、見栄っ張りな所があった。今の言葉で言うと、プライドが高かったと思う。下の世話を他人に任せざるを得ない今の状況は、父の自尊心を崩壊させ、また家族への威信をも奪ってしまったのだろうか?
再び起き上がれる希望もなく、家族と共に夕餉を囲む団らんの夢も絶たれ、父は寂しく死を迎えようとしているかのようだった。しばらくして、桜の花が散る頃に父は旅立った。
私の次女は介護福祉士である。その娘が、まだ学生だった時に私に言った言葉がある。「寝たきりになったら、私が面倒を見てあげる」。そのとき、私は即座に断った。娘に、下の世話になることは、単に恥ずかしいと思ったからである。
今夏、古希を迎えた私は、確かに老いを感じている。特に機敏性の衰えが甚だしい。今後への対策を全く考えていない私は、最近父の晩年をよく思い出す。