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創作の小部屋「函館物語」第3回

2022年02月03日

 創作の小部屋「箱館物語」第3回

前回の約束で、「函館物語」第3回は、高橋春彦と坂本真知子の二人の心の変化、即ち恋心を育むプロセスを記すと申しました。ですがその前に、私の大好きな石川啄木が函館に住んでいたことを少しお話させていただきます。

啄木は、故郷・岩手県渋民を「石をもて追はるるごと」に旅立ち、青森から青函連絡船で函館に入りました。それは明治40年5月5日のことでした。それから同年9月13日までの132日間を、啄木は函館で過ごしています。

啄木が函館を詠んだ歌は約60首あると言われております。これは故郷渋民に次いでに2番目の数で、釧路31首、小樽19首、札幌・旭川各4首と他を圧倒しています。

私は、高校生の頃、鞄の中にいつも「石川啄木歌集」を忍ばせておりました。半世紀も前ですので、そのときの歌集は見当たらず、書店で買い求めてきました。函館を詠んだ、いくつかをご紹介させていただきます。

 〇 東海の小島の磯の白砂に われ我泣きぬれて 蟹とたはむる

 〇 潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや

 〇 しらなみの寄せて騒げる 函館の大森浜に 思ひしことども

石川啄木の、人間としての評価は分かれますが、私は抒情的な啄木の歌が大好きです。この3つの歌は、函館を詠ったものと私は思っています。

  創作の小部屋 函館物語

第3章 「立待岬」へのデートの約束

(上の画像は、立待岬に咲く禅庭花です)

函館の病院に就職し、ひと月が経った頃だったろうか?私は、やっと職場にも慣れつつあった。今は、まだ新米の私は、胸部や腹部などの一般撮影しか許されなかったけれど、暗室に送られてくるフィルムの中には、脳血管を映したものもあった。脳外科の医師が造影剤を使用して映したものだ。私は感動して、放射線の資格しかない自分にも、いつかこのような高度な仕事が出来たらと、密かに憧れた。

真知子さんとは、まだ帰宅の途中のバスの中で短いデートを楽しんでいる。それは私が勝手にそう思っているだけで、彼女の気持ちは分からない。でも、真知子さんは私に会うたびいつもニコニコしている。嫌われてはいないと思っている。

いつも感じていたことだけれど、確かに真知子さんとは帰宅のバスの中で会う。でも、それなら朝の出勤時に会っても良さそうなものだ。なぜ、夕方だけなのだろう?そんな疑問も暫くしてから知ることが出来た。後から、ついでの時に記そうと思う。

ある日から数日続いて、バス停に彼女の姿が見えなかったことがある。私は気付いた翌日から、バス停から少し離れた雑貨屋の近くで、いつもより早くから彼女の姿を待った。いつものバスをやり過ごし、いつの間にか最終便になっていたが、やはり会えなかった。

職場の昼休み時に、私は薬局の受付の前を何度も往復した。いつもなら、ガラス窓から奥を覗くと、彼女が見える筈だった。受付の事務の女性が訝しげに言った。

「どうされました?どなたかにご用ですか?」

私は、何でもありませんと返事をして、そさくさと退却した。職場に戻ると、休憩室の和室で将棋を指している者がいた。私は、傍に座って将棋盤の上をただ眺めていた。

真知子さんのことが気になり、仕事中も上の空だった。私を指導してくれた伊藤さんが、どうかしたのかと心配そうに聞いたが「すみません、大丈夫です」と小さな声で答えた。

それから4~5日が過ぎようとしていた水曜日の帰りのバス停で、私は今日も逢えないと、諦めかけて下を向いて立っていた。突然、後ろから声が響いた。

「しばらくです。高橋さん!」

彼女の元気な声に、ただ私は驚いた。急に安心した私は、ふいに涙ぐんでしまった。

真知子さんは、何かを感じたのか、私に真っすぐ視線を向けて言った。

「あのう、私がここ1週間お休みをしていて、高橋さんが、もしかして心配してくれているかと考えていたのですが・・・・」

私は、涙の訳を繕うふりをして言った。

「花粉症が、まだ治りきらなくて・・・。」

ポケットからハンカチを出して、目頭を拭いながら続けて言った。

「この1週間、どうしたんですか?病院にもいなかったじゃないですか?」

真知子は、悟った。この青年が私をどれほど心配していたのかを。私が元気だと知って、うれし涙を流したこの青年に、真知子は言い知れぬ親しみを覚えた。

「あのう、私がお休みしたのは、インフルエンザに掛かってしまったからです。母と二人で、連休を利用して京都に二泊の旅行に行ったのですが、京都の二日目に高熱を出してしまったのです。全国に流行り始めているのは知っていましたが、マスクをして嵐山など人の集中しないところだけにし、余り人ごみに出かけなければ大丈夫だろうと父も言ってくれ、それに、もう予約もキャンセルできなかったもので・・・。

もしかしたら、私が勤務中に感染していたのかもしれないと思い、とても不安になりました。病院の薬局長に電話をしましたら+、幸い感染者はいないと聞き、本当に安心しました」

やっと理解することが出来た。京都でA型インフルエンザに感染し、熱が高かったので向こうの医療機関に入院し、親子共々完治したのでやっと帰ってこられたという訳だった。

医療に携わる者が、旅行に行った先でインフルエンザに感染し、1週間も仕事を休んだことは褒められることではないと、真知子さんは薬局長からきつく叱られたらしい。だが「今日から、またしっかり頑張って借りを返してちょうだい」と、話の最後は肩を軽く叩かれたという。

私は、真知子さん親子に落ち度があったのかは判断できなかったけれど、こうしてまた元気な姿を見られることが、ただただ嬉しかった。

ある日、バス停に私の方が早く着いた日の会話である。

「あ~今日は、私の方が遅かった~。残念!だって、もう5時近くになってから急にミーテングになってしまって。高齢の患者さんが、お薬の飲み方の件で問い合わせをしたら、電話対応をした薬剤師の言葉遣いが上から目線だって、酷く怒って事務長に電話してきたらしいの」

とても腹が立ったらしいの。それで、酷く怒って事務長に電話をかけてきたらしくて、充分言葉遣いに気を付けるようにって、薬局長から全員に注意されたの」

確かに目の前の業務が滞るほど忙しいときに、同じことを何度も繰り返す高齢者も中にはいる。それで気をもむことがあるのも事実だ。人に優しく接することは、時間がある時なら簡単だけれど、心に余裕がないときは難しい。

急に、真知子さんは、表情を明るく変えて言った。

「私、いつも家の中にばかりいるものだから、母に言われたの。いい若い者が、休みの日に家の中にいて本ばかり読んでいるなんて、もっと青春を謳歌しなさい。もう少し、外の空気を吸って来なさいって」

そう言い終わると、真知子さんは少し頬を膨らませた。

「何も、母が言うことじゃないわよね。私だって、たまには旅行や、ハイキングにも行ってみたいのに。でも、旅行は、この間の件があるから自粛しないとダメかもね」

真知子さんは、決して私を誘っている訳ではなさそうだった。彼女は、本来、それ程活動的ではなく、どっちかというと時間があれば本を読んでいたいというタイプなのだと思った。

私は、あのインフルエンザの一件以来、真知子さんの私への話し方は、他人行儀ではなくなった気がする。敬語を使うことが少なくなった。私も、同じように変わったらしい。

「真知子さん、僕も東京でレントゲンの夜間学校に行っている頃、寮母さんに言われたことがあるよ。休みの日は、いつも国家試験の勉強ばかりしていたものだから」

「何て言われたの?」

真知子さんは、私の顔を覗き込むようにして聞いた。

「それはね。若い時って、年齢を重ねてからしか分からないようだけれど、あの頃に戻りたいって誰も思うらしいよ。高齢になってから後悔するみたいなんだ。だから、悔いを残さないよう、大いに若い日を楽しんで生きなさいって。でも、僕には、どういうことか分かんなかったよ。いつもいつも職場と、放射線の学校を行き来しているだけ。楽しいことなんか、何もなかったし」

真知子さんは、感心したように笑顔で言った。

「でも、本当に晴彦さんは偉いわ。昼間仕事して、夜学に通うなんて。私は、家から十分な小遣いを貰って、楽しい学生生活を送ったわ。でも晴彦さん、今からでも遅くないわ。まだまだ若いんだし。もし良かったら、その青春の謳歌とやらを、私も一緒にさせて貰えないかしら?」

そう言ってから、真知子さんはいつものように顔を赤らめた。つい、心の内を暴露してしまったというように、恥ずかしさに耐えているかのようだった。だが、私の有頂天になった表情が、余りに嬉しそうだったみたいで、真知子さんは安心したようだった。

私は、前から言い出せずにいた「立待岬」に行ってみないかと誘おうとした瞬間、バスが停まった。彼女が降りるバス停に着いたのだった。

「残念!続きはこの次にしましょうね!さようなら」

真知子さんは、白い歯を今日は隠さず、嬉しそうに言った。

そのあくる日、バスの中で、思い切って言った「立待岬」に行かないかとの私の誘いを、彼女は即オーケーしてくれた。

彼女とは、函館市電の「函館駅前」駅に10時ということで約束した。        つづく

 

※ 「立待岬の碑」の画像はウィキペディア様よりお借りしました。

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