創作の小部屋「函館物語」第18回
2022年04月29日
創作の小部屋「函館物語」第18回
昨日、急に思い立って石岡市の「フラワーパーク」に一人で行ってきました。
平日ということもあり、人出はそう多くはありませんでした。ですが、今日から始まるゴールデンウイークでは、駐車場が一杯になるくらいのお客さんで賑わるかも知れません。どうか、密だけは避けてお楽しみ下さいますように。
園内には、藤・ツツジ・バラなどが満開でした。たくさん撮って来ましたので、次回もご覧いただこうと考えております。
今回は特にバラが綺麗でしたので数枚アップしたいと思います。バラの種類は、申し訳ありませんが失念致しました。
黄色一色のバラですが私の撮り方が不味く、このバラの美しさを引き出せませんでした。
数色混じった複雑な色ですが、とても魅力的なバラです。
このバラの色を私には表現できませんが、とても美しいと思いました。
「函館物語」ですが、第20回で終了予定です。皆様には、もう少しだけお付き合いをお願いいたします。それでは、さっそく第18回をご覧いただきたいと思います。
創作の小部屋「函館物語」第18回
第18章 真知子さんからの手紙(前半)
高橋 晴彦様
晴彦さん、お久し振りです。今から書き記すこの手紙を、いつどこで晴彦さんは読んで下さるのでしょうか?あなたと函館でお別れしてから、もう40年近くの歳月が流れました。
晴彦さんはどのような気持ちで、この手紙に接して下さるのでしょうか?唐突と思われるでしょうか?
あの別れの日からから今日まで、私の心の中ではあなたとの楽しい思い出が少しも色あせることなく、今でも生き続けています。
今、私はベッドの中にいます。私の体は、ガンの病魔に全身が蝕まれており、私には余り長い時間は残されていないと自覚しています。まだ意識の鮮明なうちに晴彦さんに手紙を書いておくようにと、もう一人の私が急き立てます。
生涯を独身で過ごした私の想いを晴彦さんに分かって欲しくて、またあなたの後を付いて行けなかった弱い女の心も知って欲しいと思っています。長い手紙になるかも知れません。数日を要してでも丁寧に書き進めたいと思っています。
遠い昔のことですから、晴彦さんは覚えていて下さるかと案じながら書いています。
私は晴彦さんと病院からの帰宅時にバスの中で会話をするようになりました。初めは同僚としての仲間意識からのものでしたが、少し経った頃から私は日記を付け始めました。もしかしたら、私と生涯を共にする人になるかもと知れないと、不思議な予感がしたからです。でもその日記も、晴彦さんと青函連絡船でのお別れの日が最後となりました。晴彦さんのいない函館で日記を書き続ける意味がないからです。
もう、あれから40年近くの歳月が瞬く間に流れたのですね。今日まで、私は晴彦さんとの思い出を支えとして生きて来ました。
この手紙を書き終えたら、ある人にこの手紙を委ねるつもりでいます。その人は私たちと同じ病院で働いていた、栄養士の吉田幸子さんです。吉田さんとは同じ年に入職し、姉妹のようなお付き合いをさせて頂きました。私たちは何事も隠し立てをすることなく、恋愛のことや職場の人間関係のことなど何で話し合いました。もちろん晴彦さんとの辛い別れのことも話しました。
きっと吉田さんは私の願いを快く引き受けてくれると確信しています。ですが私は余りにも身勝手だと知りながら、以下のようなことをお願いするつもりです。
-吉田さんへのお願い事-
この手紙は、私が生涯ただ一度愛した高橋晴彦さんへ宛てたものです。この手紙を吉田さんに預かって頂きたいのです。その扱い方ですが、以下のようにお願いいたします。
〇 将来、吉田さんご自身が健康に自信を無くされたときは処分(焼却)して下さい。
〇 もし、晴彦さんから私のことについて知りたいと連絡があった場合、次のいずれかの方法を取ってください。
A 晴彦さんが生涯独身であった場合は、この手紙を渡しください。
B もし一度でも既婚者であったなら手紙は処分して下さい。
以上のようにお願いしました。この手紙が晴彦さんに届く確率など私は少しも心配しておりません。もし晴彦さんにその意思があるならそれ程困難なことではないと思ったからです。世間の人から見たら嘲笑の的となることでしょう。でも、そんなことはどうでも良いのです。もし叶わなかったとしたら、高い空の上で、晴彦さんと私は縁がなかったのだと諦めます。
ここから先は、晴彦さんが生涯独身を通され、吉田さんに私の生き様を知りたいとお尋ねになられたということを前提に書き進めます。
もう既に38年近くも過ぎたことですから、晴彦さんはもうお忘れになっているかも知れません。市電函館ドック前で、2度目にお逢いした時、あることを申し上げました。それは、「今度生まれて来たときは、何があっても晴彦さんに付いて行きます」との言葉です。
昔、あなたから借りて読んだ伊藤左千夫の「野菊の墓」を、私は涙を流しながら読みました。民子さんが2つ年上だからというだけで、大人たちの醜い邪推から引き離されたふたり。民子さんが亡くなった時に胸に抱いていた政夫さんからの手紙は読む者を感動させます。
映画でも見ましたが、やはり本で読む方が好きでした。小説の中の二人が、まるで晴彦さんと私のような気がしたからです。民子さんが、亡くなる間際に政夫さんの母に話した「私は、これでいいんです」という言葉の裏に、民子さんの本心が隠されているのだと思いました。
「私は、この現世では、政夫さんと添い遂げることが出来なかったけれど、きっと来世では結ばれると信じています。ですから、私は、死ぬことがちっとも怖くはないのです」
病に蝕まれた今の私には、この時の民子さんの気持ちが痛いほど分かるのです
ある時、私の精神が闇の中を彷徨い、気が付いたときには五稜郭の石垣の上に立っていたことがありました。私が、我に返って思い留めることが出来たのは、晴彦さんのことを思い出したからです。いつかあなたがこの函館に戻られて、私の醜い最期を知ったとしたら、そう考えたら急に恐ろしくなり、外泊許可をもらった、かつて晴彦さんと一緒に働いた病院に戻りました。私は、静かに死を受け入れることに致しました。私も、民子さんと同じ心境になったのです。
忘れもしない昭和49年の12月28日、函館の青函連絡船の乗り場で、ベンチに座ったままの私を振り返りもせず、青函連絡船に乗り込む晴彦さんの悲しそうな後ろ姿を、昨日のことのように覚えています。私は、あなたに付いて行かなかった自分を今でも悔やんでいます。
出航の汽笛が鳴った瞬間、私はハンドバックのまま、船に飛び乗りたい衝動に駆られました。連絡船が動き出すと、船内の通路を貴方は走り、私の前に立ってくれました。私は白いハンカチをバックから取り出しました。力の限り振りました。振り続けました。
あなたの姿が小さくなった頃、あなたが何かを叫んでいるのが分かりました。そのとき、私は全身の力が抜けて倒れ込んでしまいました。近くの何人かの男の人が救護室に運んでくれました。
あの時差し上げたマフラーはくたびれて、もはやゴミとして処分されたことと思います。東京でも、きっと元気でいて欲しいと願いながら急いで編み上げたものです。
晴彦さんに付いて行かなかった私をさぞ恨んでいるかと思います。私は弱い女です。あなたに責められても返す言葉がありません。でも、私は心から晴彦さんを愛していました。私がこの手紙を書き始めたのは、あなたの意思に沿えなかった弱い女ですが、私なりに晴彦さんの愛に応えようと努力したことを知って欲しいからです。私も晴彦さんと同じように辛かったことを知って欲しかったからです。
賢明な晴彦さんですから、父に反対されていることは容易に想像できたでしょう。晴彦さんとペアリングを買った晩に、母に台所で話すと、母はとても喜んでくれたとお話ししたと思います。ですが、それから1週間くらいしてから、私と父との間に悲しいやり取りがあったのです。
晴彦さんと上磯の漁港でコーヒーを飲んだ後、二人でペアリングを買いましたね。母は私たちのことを認めていました。父はいつも忙しくしていて、母と落ち着いて話すこともなかったので、あの日の晩初めて私たちのことを話したそうです。
それから暫くして、私は母に呼ばれました。土曜日の夕方で、私は仕事から帰り、自室で雑誌を見ながら寛いでいた時でした。階段を降り1階の居間に行くと、父は新聞を広げていました。どうやら、私を待っていた様子でした。 つづく