課題テーマに挑戦「春日山」第5回
2018年02月24日
課題テーマに挑戦「春日山」第5回
課題テーマ「春日山」も今回で第5回目となります。(上の画像は、「春日山に上がる満月」です。)
今回は、ネットで偶然見つけた「春日山」に因んだ「百人一首」のある歌をご紹介させて頂きます。この内容は、奈良文化財研究所さまのブログ「なぶんけんブログ」からの引用です。予め、お断りをさせて頂きます。
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
(月岡芳年『月百姿』)ウィキペディア 阿部仲麻呂より
百人一首に収められたこの歌は、皆さんもよくご存じのことと思います。作者の阿倍仲麻呂は、都が藤原京にあった文武天皇2年(698)に阿倍船守の子として生まれました。名族阿倍氏の出身で、若くして学才を認められた仲麻呂が遣唐留学生して唐に渡ったのは、養老元年(717)のこと。よく知られているように、唐で官吏として活躍し、結局日本に戻ることなく、宝亀元年(770・唐暦大暦5)に唐でその生涯を終えています。年代的にはまさに奈良時代の人なのですが、その経歴のためか、この歌は『万葉集』ではなく、平安時代に編纂された『古今集』に収められています。そして、これが仲麻呂作として知られる唯一の和歌なのです。
『古今集』の詞書によれば、この歌が詠まれたのは、仲麻呂が帰国の途につこうとした際、明州(現在の寧波)で開かれた餞別の宴でのことでした。仲麻呂は、天平勝宝5年(753・唐暦天宝12年)、玄宗皇帝の許しを得て、前年に入唐した遣唐大使の藤原清河らとともに日本に帰国しようとしていたのです。広々とした大空をはるかに仰ぎ見れば、今まさに帰ろうとしている故郷平城・春日の三笠山でかつて見た月と同じ月が昇ってきている―在唐36年に及んでいた仲麻呂の帰郷への期待があふれ出た歌なのです。しかし、仲麻呂の乗った遣唐使船は難破し、当時は唐の領内であった安南(現在のベトナム)に漂着。都の長安(現在の西安)に戻った仲麻呂は帰国を断念し、再び唐で官吏としての道を歩みます。その後、唐暦上元2年(761)から数年間、現在のベトナムのハノイに置かれた安南都護府の長官・鎮安南都護をつとめるなど、日本人としては他に類例のない栄進を果たすのです。
西安の興慶宮公園にある阿倍仲麻呂記念碑 ウィキペディア 阿部仲麻呂より
今回、栃木県の山大紅葉さんからのご提案頂きました「春日山」は、このように「百人一首」にも詠まれた大変由緒ある山であることが分かり驚いています。この後、どういうふうに進めて、作詞に結び付けていけば良いのか暗中模索の状態ですが、諦めることなく少しづつ知識を蓄え、きっと素晴らしい作詞を完成させたいと思っています。
※春日山は、春日大社の東側にあります標高497メートルの花山と、西隣にあります標高283メートルの「御蓋山」(三笠山)とを総称して呼ばれています。御蓋山を「前山」、花山を「奥山」と区別する場合もあるそうです。