課題テーマに挑戦「音戸大橋」第6回
2020年02月02日
課題テーマに挑戦「音戸大橋」第6回
何か急に春めいてまいりました。暦は昨日から2月となりました。
今朝は5時に起きだし、パソコンに向かいました。課題テーマの「音戸大橋」ですが、メールにて情報を頂いたことにより、少しイメージが湧いて来ました。私は、何か物語のようなものを書きたいと思うときは、早朝に始めます。
ちょとしたイメージを掴むことが出来ましたら、後は二つの手の指に委ねます。指の動きが遅いと、折角浮かんだイメージが消えてしまいそうで、焦りながらキーボードを叩くことも良くあります。
今朝は「音戸大橋物語」というタイトルで、思い付くまま書いてみました。基本になっているのは、頂いたメールとネットで調べた情報です。さっそくアップさせて頂きます。
音戸大橋物語
もう随分昔のお話です。
私と兄が育ったのは、呉市の警固屋というところです。家は小学校の近くのアパートでした。悲しいことに私には、母と暮らした記憶がありません。父の話しで、私が2歳の時に母は病で亡くなったと聞いていました。
当時、父は呉の製鉄所で働いており、私と3歳違いの兄とはいつも二人で遊んでおりました。父は、休みの日には疲れたと言って、朝から酒を飲むか、一日中布団に潜っていました。
私は呉の街が大好きです。家から少し歩くと、海岸です。大きな軍艦や潜水艦を間近で見ることができます。私と兄は、大きな声で燥いだものでした。
また、私と兄はよく三津峰山に登りました。兄が大きなお結びを作ってくれて、鰯のいりこと水筒を持って出かけました。この山の頂上から見える、音戸の瀬戸には無数の船が行き交い、航跡波が1本の線になり、陽に反射して光っておりました。
また、遠くを見渡すと瀬戸内海の緑の島々が、空の青と海の青の間に無数に浮かんで、それはそれは美しいものでした。
小学校4年の時、風邪を引いて休みました。中学1年の兄も学校を休んでくれました。熱を測ると、39度1分もありました。家には冷蔵庫がなく、兄は魚屋さんに行き、氷を買って来てくれました。氷嚢が冷たかったのを覚えています。
おかゆと梅干と白湯を枕元に運んでくれて、「少しでもいいから食べろ!」と半ば命令口調で言いました。お蔭で、2日休んでまた学校に行くことが出来ました
この兄がいてくれたお蔭で、私は寂しいと思ったことはありません。母親のいない寂しさを感じたこともありませんでした。
私は中学校を卒業すると、海産物の会社に就職しました。兄は、父と同じ会社で工員として既に働いておりました。
私は二十歳を過ぎたころ縁があり、広島市に嫁ぎました。結婚式の費用は、兄が虎の子の財産をはたいてくれ、人並みの結婚式を挙げることができました。
子供が生まれると、「少ないけれど、子どものために使って欲しい」と、毎月のようにお金を送ってくれました。幸い私の夫も真面目に働く優しい人でしたので、何とか生活はして行けたのですが、兄の善意を受け入れ、将来の子ども達の学費にと預金させて頂きました。
昭和36年、本土の呉と倉橋島を結ぶ「音戸大橋」が完成しました。大型船の航行のため橋桁を高くする必要から設計されたループ状の橋が当時は珍しく、多くの見物客で賑わいました。私は当時8歳でしたが、とても嬉しかった記憶があります。
経済の成長と共に「音戸大橋」は大変な混雑をするようになり、平成25年に「第2音戸大橋」が完成しました。この新しい橋も朱色の木々の緑にとても映える美しい橋でした。私は嫁ぎ先の広島市から、わざわざ訪れました。兄は残念ながら、「第2音戸大橋」を見ることもなく、その2年前の春に亡くなりました。
兄は生涯結婚することもなく、肝臓を悪くして60歳で亡くなったのでした。
兄のアパートの部屋の隅には小さな父の仏壇がありました。その仏壇には預金通帳と印鑑が封筒に入って置かれており、その中には鉛筆で書かれたメモ用紙のような紙が同封されていました。
「友香へ このお金は葬式用に使って欲しい。もし残ったならばお前たちの子どものために使って欲しい」と書かれておりました。葬儀用のお金を差し引いても相当な額が残りそうでした。
兄の遺品を整理していたとき、表紙が黒ずんで一部破れた小さな日記を主人が見つけました。主人から受け取って、偶然あるページを開いて読んだ私は号泣しました。
「昭和49年10月11日 友香(私の名前)は知らない方がいいし、この先も話すつもりはない。もし知れば、母を捜すだろうし、母を憎むことになるからだ。俺たち兄妹を置いて、見知らぬ男と逃げた母親。許せない!
10歳の頃それを親父から聞いた。どこまでが真実かは分からないが、自分は信じざるを得なかった。幼い友香が可愛そうでならなかった。その時、幼心に俺は誓った。これから、友香は俺が守る。俺はどうでもいい。友香の幸せを第一に考えて生きる。だから、友香許して欲しい。母は、病気で死んだ。それを信じて、母を忘れて生きて欲しい。」
私は、母親がいなくても幸せでした。その代わりを全て兄が担ってくれましたから。
兄にも私が嫁いだ後、いろいろ辛いこともあったのでしょう。私を置いて逝ってしまいました。
法要が済んだ春の日、主人と孫の陽菜の3人で、「音戸の瀬戸公園」にやって来ました。緑の木々や色とりどりのツツジの花の向こう側に、朱色のあの日と変わらない「音戸大橋」がその姿を誇っていました。
音戸の瀬戸には、無数の大小の船が行き交い、航跡波が何本も何本も春の陽射しに輝いていました。その姿は、幼い日に、兄と三津峰山で眺めたあの時と同じでした。 (終わり)
次回は、作詞のための「ことば集め」に入りたいと思います。(第2音戸大橋の画像は、ウィキペディア様よりお借りいたしました)