創作の小部屋「夕香金沢ひとり旅」総集編
2020年08月25日
「夕香金沢ひとり旅」総集編
「夕香金沢ひとり旅」の物語が先週の22日に完成しましたので、総集編として第1回から第13回までをまとめてみました。この物語を基本にした作詞をこれから進めたいと考えています。
第1章 金沢への出発「北陸新幹線かがやき533号」
北陸新幹線「かがやき533号」は定刻の14時52分丁度に東京駅を滑るように出発した。
夕香は前から3両目の進行方向右側の窓際に腰を下ろしていた。車窓に目をやりながら、これから向かう金沢に思いを馳せた。昔、中学生の頃、家族で紅葉の季節に訪れたことがあった。兼六園の茶店で和菓子を食べた情景が僅かに残っていた。
ふと記憶が蘇ってきた。-あっ、それから確か松尾芭蕉の句碑があったような気がする- でも、その句碑に何と書かれていたかはどうしても思い出せない。夕香は、携帯電話をバックから取り出し「兼六園 句碑」でネット検索した。
あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風
解説によると、「もう秋だというのに、太陽の光はそんなことは関係がないというふうにあかあかと照らしている。しかし、風はもう秋の涼しさを帯びている」とあった。そうだ、あの日も秋の筈なのに太陽が煌々と私達家族を照らしていた。私の家族とは、母と祖母、それに私の3人である。
今回、夕香が急に金沢行きを思い立ったのには訳があった。確かに、つい先日それほど親しくもない人から、いきなり「夕香さんは、どこの街が好きですか?」と尋ねられ、つい「金沢が好きです」と答えてしまったことに起因する。だが、東京のある大学の博士課程に進み博士号を取ろうとしている現在まで、思春期の頃から文字通り勉強漬けの毎日であり、ここ数年は論文そして学会発表と多忙を極めていた。
夕香は疲れていた。また、悩んでいた。ひと時でも都会の雑踏から逃れたかった。
第2章 祖父からの手紙
夕香は悩んでいた。車窓をただ眺めていた。(私は、何を悩んでいるのだろう?)心の悩みの整理もつかないまま、金沢ならきっと私を元気にしてくれるに違いない。そう信じて「かがやき533号」に乗り込んだのであった。
夕香には父の記憶がない。夕香が幼い頃両親が離婚したのだった。母は、幼い私を連れて故郷のつくばに帰った。
母は私に優しかった。私を愛してくれる母を、私はもちろん嫌いではなかった。だが、完璧な人間がいないように、母にも欠点があった。普段は優しい母ではあったが、ちょっとした私の間違いや母の考え方と違う行動をすると、その理由の説明もないまま、厳しい言葉で指摘するのであった。
私はこの母の欠点には閉口した。多分、母が離婚した原因は、この辺にあったのではないかと推測してしまう。もちろん私の記憶にない父にも多くの欠点があったのだろう。理由はどうであれ、しょっちゅう諍いを起こしている家庭で育てるよりも、両親が住んでいる、私にとっては祖父母の住んでいるつくばで私を育てることが、より私のためには良いと考えたのだろう。
幼いころの私は、友達にはお父さんがいるのに、どうして私にはいないのか、口にすることはなかったけれど、心の中では友人が羨ましくてならなかったのを覚えている。辛いことがあった時、嬉しいことがあった時、小さな胸が張り裂けんばかりに悔しがった記憶がある。思春期になるまでは、私は母の言う通り何でもその指示通り生きてきたが、中学生の高学年になると、私は母と何度も諍いを起こした。その度に八十路に近い祖母が仲裁に入ってくれた。
高校3年生のある日、進学のことで母と争った。母は私が勉強好きなのを知っていたので大学に進むことを許してくれた。だが、進学する大学は母が勝手に決めた。我が家から通学するのにはとても便利な国立大学だった。確かに私が学びたい学部があり、優秀な教授や準教授が揃っていることでも全国に知られている。しかし、私が希望しているのは東京の港南大学だ。その大学のⅯ教授の授業をどうしても受けたい。それに若いうちに日本の首都での生活を経験しておきたかった。
母は「我が家にお前を大学にやれる余裕などないのだけれど、お前が可愛いから何とか行かせてあげようとしているのに、何をわがまま言っているの!」と怒鳴った。奥の部屋から、祖母が慌てて出てきて言った。
「夕香、私もお前が可愛い。何とかお前の望みを叶えてあげたい。私も年金の中から毎月5万円を都合してあげる。それにお前のために残して置いた私とおじいちゃんの預金がある。心配ないから、お前の好きな大学に行きなさい。それから、働いてから自分で返す奨学金も借りなさい」
母は、何も言わなかった。昔、勝手に離婚して転がり込んできた娘親子を何も言わずに受け入れ、親子の面倒を見てくれたこの祖母だ。母も同意せざるを得なかった。祖母は続けて言った。
「夕香、夕飯の後、私の部屋に来なさい。お前に渡したいものがある」
夕香は食事が済んで一休みをした8時過ぎに祖母の部屋に向かった。
「夕香、お前は覚えているか分からないが、お前のおじいちゃんからお前への手紙を預かっている。15歳以上になって、夕香が悲しんでいるときや、人生の岐路など大事な時に渡して欲しいと言われ、もう15年も前に預かった。おじいちゃんは健康に自信がなかったので、万が一のことを考えて、お前が2歳の時に書いた手紙だ。この手紙を預かってから3年後におじいちゃんは亡くなった。好きな時に開けて読んでごらん」
封筒は15年の歳月を感じさせないままの状態だった。祖母が大切に保管していてくれたためだろう。夕香は、その晩ベッドに入る前にひとり封筒を開けた。便箋が1枚入っていた。
- 世界で一番大好きな夕香ちゃんへ -
じいじは 夕香ちゃんが世界で一番大好きです
じいじは 夕香ちゃんが大きくなるまで傍にいたいです
じいじは 夕香ちゃんの成人式が見たいです
じいじは 来年70歳 いつまでも生きていられないのです
夕香ちゃんが ずっと元気で
そして幸せであるよう祈っています
もし じいじが生きていなくても いつも高い空の上から
夕香ちゃんを見守っています
泣きたいときは 思いきり泣いてください
じいじが守ってあげます
やさしく こころも姿も
美しい人になってください じいじより
夕香は、顔も覚えていない祖父の想いに頭を垂れた。
第3章 ひがし茶屋街
突然、携帯のアラームが鳴った。それは夕香が金沢駅到着5分前にセットしておいたものだ。慌ててアラームの音を消した。車窓の外は既に夜の帳が下りようとしていた。
北陸新幹線「かがやき533号」が東京駅を出発し、早や2時間半を経過しようとしていた。「かがやき533号」はとても快適だった。普段は読んだことのない週刊誌を膝の上に置いたまま眠ってしまっていた。もう数分で金沢駅到着である。
金沢駅に着いたらまず予約しておいたホテルに荷物を置き、和風レストランで食事をすることに決めていた。食事の後は、金沢駅東口から出ている「金沢ライトアップバス」に乗り「ひがし茶屋街」を散策するという嗜好であった。
北陸新幹線のホームを降り改札を出て、おもてなしドームに入った。目の前には、ライトアップされた鼓門がくっきりと浮かび上がっていた。鼓門は厳かに輝いていた。新鮮な驚きだった。この鼓門のライトアップは平成18年の12月からのようで、確かに中学生の頃の記憶にないのは当然だった。
しばし佇み見とれていたが、鼓門を過ぎて数分の所にある夕香には少し贅沢と思えるホテルに入りチェックインした。
部屋で少しの間寛いだ後、ネットで予め席及び加賀料理を予約しておいた、ホテルから歩いても僅かな距離にある和風レストランに向かった。女一人で入るには多少の勇気が必要ではあったが、加賀百万石の街の中心である。恐れることは何もなかった。
この和風レストランでは金沢港直送の海鮮が有名であった。店に入り名前を言うとウェイターは直ぐ席に案内し、予約の加賀料理の確認をすると「直ぐ、お持ち致します」と言い奥に返した。確かにウェイターは待たせることなく、日本海で獲れたヒラメや鯛などの刺身の他食べきれないほどの椀物と汁物を端的な説明と共にテーブルに並べた。夕香は金沢おでんの王様「カニ面」もオーダーしたいと思っていたが、目の前の料理の豪華さに圧倒された。ただ「カニ面」には時期が早すぎた。食後には、抹茶とモンブランのセットを注文した。
(下の画像は、加賀料理とカニ面です)
※ カニ面はズワイガニのメスである“香箱ガニ(こうばこがに)”の甲羅の部分にカニ身や内子・外子を詰めたおでんダネです。石川県のカニの解禁日は毎年11月6日で、香箱ガニの漁期は12月29日までと僅か2ヵ月未満です。
食前酒として頼んだ日本酒も美味しく、そのせいか悩みを抱えた夕香にも食欲が戻って来た。少し食べ過ぎたと思った。それでも大分残してしまった。普段、大学では食事の時間も不規則になり、学食で麺類などで済ませることも多く、今日の料理は自分には不似合いだと思ったけれど、滅多にないことなのでつい「金沢の食」を堪能してしまった。食後の予定の「金沢ライトアップバス」は、19時から15分おきにバスターミナル7番乗り場から運行している。少しお腹が重たいような感じがしたが、バス停まで歩き「金沢ライトアップバス」を待った。5分も待たずにバスはやって来た。
乗車客は意外に少なかった。煩わしい世間から逃れてきた夕香には、誰からも干渉されることなく自由に歩きたかったので、何かホットした。幾つかのバス停を過ぎると、「ひがし茶屋街」のある橋場町バス停に着いた。夕香と還暦を過ぎたと思われる夫婦だけが共に降りた。
5~6分も歩いただろうか?あまり広くない道を挟んで両側に2階建ての木造の建物が続いている。「ひがし茶屋街」である。
江戸時代、金沢城下町近郊を流れる犀川・浅野川両界隈に多くの茶屋が立ち並んだという。1820年頃、犀川西側に「にし」の茶屋町、浅野川東側に「ひがし」の茶屋町が共に開かれ大いに賑わったという。その歴史を感じさせる佇まいも、今では伝統工芸品を販売するショップが立ち並び、町家カフェには種々の飲み物やスイーツまでも揃っている。
その中のどの建物一つをとってみても、華やかさの陰で、その割合は分からないが、貧しい農村に生まれたが故の悲しい女の涙と、狭い視界の中での男への愛憎が沁み込んでいるような、或いはまた許されない恋に悩む女の切なさなども滲んでいるような、そんなやるせない想いに一瞬囚われた。
夕香は、将来のことで悩んでいた。
― 私はなぜ博士号を取りたいのか?私の生きる目標とは何なのか? -
第4章 夕香名所徒歩巡り
朝、目覚めると夕香は窓のカーテンを開けた。金沢の空は何処までも青く澄んでいた。
昨夜は、ホテルに9時半ごろ戻った。それから、シャワーを浴びてベッドに入った。そのまま夕香は朝まで熟睡した。時計を見ると7時を回っていた。着替えて2階の鳳凰の間に行き、小鉢がいくつか付いた朝粥をオーダーした。昨夜は少し食べ過ぎたかと、胃に優しい粥を選んだ。
朝食を済ませ部屋に戻ると、今日のスケジュールを書き込んだ手帳をバックから取り出した。以下の5ヶ所を見て回り、北陸新幹線で今夜のうちに帰京する予定である。
夕香には休日さえ2日続けてゆっくり休める余裕はなかった。明日の日曜日は膨大な研究資料を集めなければならない。明日のことは考えず今日を楽しもう、夕香は決心した。
①香林坊・長町武家屋敷
②金沢21世紀美術館
③金沢城(橋爪門)
④兼六園
⑤近江町市場(ここは観光と言うよりお土産を買うのが目的である)
香林坊までは金沢駅東口バスターミナル8番~10番から出る路線バスで行き、香林坊の街を散策する。それから、長町武家屋敷まで約5分歩く。
武家屋敷を見学してからまた香林坊に戻り、金沢21世紀美術館に徒歩で向かう。香林坊から美術館までの距離は約700ⅿなので多分10分くらいで着く。
金沢21世紀美術館から金沢城(橋爪門)までの距離は少し遠い。約850ⅿある。それでも15分歩けば着くはずだ。
金沢城(石川門)と兼六園は殆んど離れていない。石川門からは80ⅿだ。1分あればOKだ。
ナビは裏切らない。無事、11時半頃兼六園に着いた。ここまで順調に進んだ。兼六園に着いたら加賀の郷土料理「治部煮(じぶに)」を食べようと決めていた。
ネットで調べておいた治部煮の店に入った。「何に致しましょう?」注文を取りに来た女性に、「治部煮とご飯少しとお味噌汁を下さい」と夕香は言った。店の中は結構混んでおり、見渡すと治部煮の蕎麦やうどんを食べている人が目立った。
「ああ、そうだ。この店は『治部蕎麦』が有名だった。頼めば良かった」と少し後悔した。間もなく、治部煮は運ばれて来た。
治部煮での昼食を済ませると、夕香は懐かしい松尾芭蕉の句碑に向かった。芭蕉が金沢に立ち寄った時に詠んだものだ。 あかあかと 日は難面も 秋の風
中学生の時に見た、そのままであった。あの時から既に10年の歳月が流れた。あの頃に戻れたら、やはり今と同じ道を歩んだだろうか?私の歩んだこの10年はこれで良かったのだろうか?今、結論は出せない!それには、やはりあと10年の月日が必要だと夕香は思った。暫く佇んで昔を回顧していた。
やっと直ぐ脇にある「山崎山」の入り口に向かった。
山崎山は、高さ9ⅿ 周囲160ⅿの築山で、頂上には茅葺き屋根の四阿(あずまや)がある。そこから見る紅葉は期待を裏切らない
右の下に見える手水鉢には、しっかりと見事に紅葉が写し込まれている。
山崎山の紅葉を堪能した夕香は、元の階段の坂道を引き返した。もう少しで出口という所で、ハプニングに遭うとは予想だにしていなかった。
第5章 私の生涯を決めた出来事
私が現在博士号を取得しようとしている研究テーマは「発達障害」だ。私が生涯をかけ「発達障害」を研究テーマにした動機は、大袈裟なものではなかった。
母の弟、私からすれば叔父になる。その叔父が婿養子として入った家がすぐ近くだった。その叔父には、私と同い年の男の子がいた。名前を隆と言った。私が小学生の頃、よく叔父と我が家にやって来た。
その男の子は、いつもじっとしていずに動き回っていた。私とかくれんぼをしても、柿の木の間から、あるいは物陰からすぐ出て来てしまう。いつも休みなく動きまわり、じっとしていることが苦手のようだった。半面、興味のあることには、例えば積み木などは、時間を忘れるほど没頭して、ご飯も食べずにやり続けたりした。
私はいつの間にかこの男の子と、一緒に遊ぶことが嫌いになった。遊びにならないのである。二人で何かを始めても、いきなりゴムのボールを持ち出し、手が滑って道路に投げてしまったその後を追い、車が通るのも確認しないで飛び出したりする始末である。
「隆ちゃんは、本当にバカなんだから!もう一緒に遊んでやらない!」
私はそのうちに、このいとこの男の子をバカにし始めた。母が咎めたが、私は一向にバカにすることを止めなかった。小学4年生の頃である。
そのいとこの隆ちゃんが中学2年生になった頃、担任の先生から叔父に呼び出しがあったそうだ。叔母さんが学校へ行くと、担任の先生から「発達障害かも知れないので、一度専門のお医者さんに診て貰ってください」と言われたとのこと。隣町の総合病院の小児科で診て貰うとやはり「ほぼ発達障害に間違いないだろう。ただ、私はこの病気の専門医ではないので、紹介状を書くから、大学病院の専門医に相談して欲しい」とのことだったという。
母にも相談の連絡が入った。叔父も、叔母も、もちろん私の母も祖母も初めて聞く病名で、何のことかさっぱり解らない。大学病院の予約の日には、叔父、叔母、私の母と3人が付き添って出かけた。「発達障害」という病気のことを正しく、そして詳しく聞こうと必死だったのだ。
大学病院の専門医は博士で、大学の講師も兼ねていた。この医師の説明では、発達障害という病名は幾つかの病名の総称で、隆ちゃんの正式の病名は「注意欠陥・移動性障害(ADHD)」とのこと。その病気の特徴を詳しく説明してくれた。
【ADHDの特徴】
不注意(集中力のなさ)、多動性(落ち着きのなさ)、衝動性(順番待ちができないなど)の3つの特性を中心とした発達障害のことを指します。また、注意欠如多動性障害と訳される場合もあります。
ADHDは7歳までに発症し、幼稚園や学校生活のさまざまな場面で、3つの特性から来る行動が確認されます。ADHDに関連した症状は短期間で消失するものではないため、学業や友人関係の構築に困難を覚えることがあります。
ADHDは小児期に発症する病気ですが、学童期や成人になっても症状が持続することが多いといわれています。決してまれな疾患ではなく、また、男児のほうが女児よりも多い傾向があります。
なお、ADHDと自閉症スペクトラム障害(自閉症やアスペルガー症候群などを含む概念)は混同されることが多くありますが、両者は異なるものです。自閉症スペクトラムでは、コミュニケーションや対人行動の障害が中心となります。(Medical Noteより転載)
私は母からこの話を聞いたとき、小学生の頃を思い出し、とても後悔した。病気ゆえだった隆ちゃんの行動をバカにしたのを思い出したのである。母や祖母、そして叔父のいる大勢の大人の前で、隆ちゃんを辱めた。隆ちゃんは、どんなに悔しかったことだろう。私の言葉に、どれほどプライドを傷つけられたことだろう。もちろん、当時まだ何も知らない子供だったとはいえ、私は自分自身を許せなかった。
いつか隆ちゃんにこの償いをしようと考えた。それには、どうすれば良いのか、その時は思い付かなかったが、高校2年生の頃「発達障害」の研究者になり、隆ちゃんのような病気の子供のためにこの生涯を捧げることで、隆ちゃんに許しを請おうと真剣に考え始めた。
現在も、発達障害を引き起こす要因やメカニズムなどは、まだハッキリと解明されていないらしい。この病気には、早期発見と共に早期支援が大切らしい。この私も努力をすれば、この病気のために苦しむ人たちとその家族のために、きっと役に立つことがあるに違いない。
人は意識せずとも心の願う方向に歩んでいく。当然ながら、その結果として現在の私が存在している。
第6章 悩みの素因
夕香がこれほど疲れている、そして悩んでいる基となっているのは、夕香が小学生の頃に作られた法律だと思っている。夕香が何も知らずに隆ちゃんをバカにして遊んでいた頃(2003年7月)に成立し、翌年の2004年4月より施工された「国立大学法人法」だ。
この国立大学法人化には、良いことばかりではなかったらしい。
《ウィキペディアより》
「運営費交付金が法人化後11年間で12%減少した一方、消費税、電気料金、電子ジャーナル料などで諸経費が高騰し、常勤教職員の減少、教員の多忙化による論文数の停滞、学長裁量経費の確保も困難となる悪影響が顕著に出たこと、私立大学とは異なる税制上の扱いのため、寄付金額が伸び悩んでいること、競争的資金の使い勝手の向上が必要といったことが示された。」
《大学の実情》
「04年度に国立大学が法人化されて6年が経つ。法人化により、それまで国に使途が定められていた国立大学の予算が、大学の希望通りに使えるようになり、剰余金を次年度に繰り越せるようになった。しかし、法人化以後に国から給付される大学の予算(国立大学法人運営費交付金)は年々減少している。国立大学全体の削減額は、6年間で830億円に上る。これは小規模の国立大学26校分の年間運営費交付金と同額程度の計算になる。
国立大学の予算が削減されると、大学に通う学生もその影響を受けることになる。大学の資金を管理している財務部や、学生の生活を支援している学生部は、国立大学が法人化し、大学の予算が毎年1%減額されるようになってから、なるべく学生に直接の影響が出ないように尽力してきた。しかし、今後さらなる減額が行われると、人件費の削減だけでは対処できなくなると危惧している」
夕香はいつか友人から聞いた噂を思い出した。
大学に事務用品(事務用機器・机・椅子・文房具その他)を納入している南関東のある小さな会社で働く友人の親戚の人は、仕事が激減し月8万円もの減給となった。また、大学の共有部の清掃を委託された会社では、床ワックス清掃が年4回から2回となり、また年金だけでは食べていけない高齢者が主に働く日常清掃の労働時間も、1時間の時間短縮となったらしい。大学は何としても生き延びなければならないと、爪に火を点すような努力をしているようだ。
《小坂井敏晶『答えのない世界を生きる』pp. 128-129》
「日本では大学教員の評価システムが定着し、競争の時代になった。講義シラバスの公表を義務付け、授業内容を学生が評価する大学がほとんどだ。インターネットを検索すれば、教員の業績がわかる。発表論文や著書、受賞歴などがリストになって出てくる。そしてマスコミや政府が競争を煽る。
だが、やりたくない研究に何の意義があるのか。履歴書の厚みは増す。しかし個性は殺される。「客観的」で「公平」な評価方法は質より量を重視し、常識を疑う少数派の金脈を潰す。(中略)書類作りが増え、教員の官僚化が進行する。すでに教授は研究者から中間管理職に変質した」
こうした背景の中で博士号の取得を目指す夕香には、悩みがあるのはある意味当然かも知れなかった。夕香も多くの論文を専門誌への投稿と、また「発達障害」関係の幾つもの学会での発表と、いつも時間に追い立てられていた。
第7章 再び山崎山
夕香は山崎山の紅葉に十分満足し、階段のある下り坂を歩き、もう少しで出口という所で不思議な光景を目にした。中学生と思われる男子5~6人を、50代前半の男性が先導して歩き、最後尾を30代前半と思しき女性が芝犬を連れて近づいて来た。不思議な光景とは、その犬の頭部に幅3センチ位の白い輪状の物が取り付けられているのである。
夕香はその男子生徒らが何らかの障害を持った人達であることを瞬時に理解し、階段の隅に立ち止まり、そのグループが通り過ぎるのを待った。初老の男性は笑顔で「こんにちは」と夕香に声を掛けてくれた。夕香も傍を通り過ぎる一人ひとりに「こんにちは」と声を掛けた。
最後の犬を連れた女性が通り過ぎようとした瞬間である。柴犬が夕香に迫って来た。夕香は驚き、柵の反対側に背中から倒れ込んでしまった。初老の男性があわてて駆け寄り夕香を抱きかかえ立たせてくれた。
「申し訳ありません!大丈夫ですか?」
男性は夕香の背中のゴミをハンカチで払いながら、心配そうに尋ねた。夕香は体を少しねじってみたり、足踏みをしてみたが特に痛みもなく無傷だった。
「申し訳ありません。ここ兼六園では犬と同伴での入園は禁止されていますが、私どもは訳あって特に許可を頂いております。本当に申し訳ありませんでした」
男性は顔を歪めて夕香に心から詫びた。
「本当に申し訳ありません。私が犬のリードをしっかり管理していたつもりだったのですが、ご迷惑をお掛けし本当に申し訳ありません」
連れの女性も涙目になりながら、深々と頭を下げた。
二人の謝罪に、夕香は平常心に戻ることが出来た。改めて先ほどのシーンを振り返ってみた。確かに柴犬は夕香に近づいて来たと思ったけれど、夕香には触れてはいない。いや近づいてきたと思ったのは、柴犬の頭に取り付けられた白い輪状の物が揺れたのを、夕香が勝手に近づいて来たと錯覚したのだ。
「いえ、私のほうこそ取り乱して申し訳ありません。よく考えてみますと、このワンちゃんには何の落ち度もありません。私が勝手に驚いて倒れ込んでしまったようです。私が驚いたのは、ワンちゃんの頭に着けられた白い輪状の物が揺れたのを近づいて来たと勘違いしてしまったのです。私のほうこそ、ご迷惑をお掛けしました。申し訳ありません」
夕香の言葉に二人はやっと安堵の表情を浮かべた。
「あのう、大変恐縮ですが、少しお時間頂けませんか?」
初老の男性が夕香に言った。決して強要するという言い方ではなく、夕香の体を心配しての配慮ということが感じられた。
「私は、これから近江町市場に寄ってお土産を買い、6時過ぎの北陸新幹線で東京へ帰る予定ですので、多少の時間は大丈夫です」
夕香はこの男性の職業に興味を持った。それで、誘いに乗った。男性の後を付いて夕香は兼六園を出た。その後から中学生らと柴犬を連れた女性が後に続いた。
男性はいくつかのスイーツ店等のお店をやり過ごして歩いた。犬が同伴できる条件のお店を探しているようにも見えたが、夕香にある程度の距離を歩いて貰うことにより、本当に大丈夫なのかを確認する目的のようでもあった。
「ここに入りましょうか?」
300メートル以上は優に歩いただろうか?洒落たスイーツのお店で、空いていたので全員が入れた。もちろん柴犬の同伴もOKだった。男性はこのお店に入るのは初めてではないようだった。女性店員が「先生、いらっしゃいませ!」と元気に声をかけたからだ。
「お体、大丈夫ですか?」
男性は夕香が無事ここまで歩いたことから、とても穏やかな表情で夕香に言った。夕香が「本当に大丈夫です」と答えると、男性も連れの女性も笑顔が弾けた。
「申し遅れました。私、こういう者です」
と言いながら、男性はウエストバックから名刺入れを取り出し夕香に渡した。夕香は両手で受け取り、さっそく名前に目をやった。その名前を見て、夕香は驚いた。夕香の所属するいくつかの学会のうちの「特殊教育学会」で、基調講演や特別講演などで演台に立つ姿を会場側から何度も見たことがあったからだ。
夕香は自らの何か変化の前兆のようなものを感じた。
第8章 ASDのこども達への教授の愛
夕香は、自らが研究する世界においての重鎮とも言える人と一緒にいることが、とても不思議な気がした。
「私は、先生を存じ上げております。名古屋国際会議場で開催された第55回「特殊教育学会」での先生の講演を拝聴させて頂きました。それ以前にも何度か演台でのお姿を拝見させて頂いております。私は、港南大学大学院博士課程心身障害学研究科の五十嵐夕香と申します」
夕香は顔を少し紅潮させ、普段よりも早口で話した。
(名古屋国際会議場 ウィキペディア様より)
「それは、私にとっても光栄です。今回のことは、何かとても不思議なご縁を感じます。ところで、先ほどの山崎山の話に戻りますが、あなたが驚いた柴犬は3ヶ月前に失明した盲目犬なのです。突発性後天性網膜変性症という病名で、SARDとも呼ばれているそうです。この病気は突然目が見えなくなる恐ろしい犬の病気です。
あなたも私たちと同じ研究をされている方だと分かりましたので、私たちのことをお時間の許す範囲でお話しさせて頂きます。
このASDの子ども達のために、柴犬を入所施設で数年前から飼い始めました。この子供たちにとって、犬との交流はたくさんの恩恵を与えてくれると信じていたからです。実際、飼ってみると、とても大きな効果が得られました。
一つ目の効果は、犬の速さに合わせた散歩は、有酸素運動になります。このことは、彼らのストレス度や抑うつの減少の効果が見られました。散歩する以前のデータと比較してみて分かったことですが、驚くべき事実でした。
それから2つ目の効果としては、普段はあまり外に出かけたがらない子供たちも犬との同伴なら嫌がらずに参加してくれたということです。その結果、何度も散歩をしているうちに、知らない方が声をかけてくれたり、また柴犬を撫でてくれるようになりました。そうした人たちが今では10人を超えて、地域の方達と僅かずつですがコミュニケーションが取れるようになって来ました。私はとても素晴らしいことだと喜んでいます。
3つ目は、子供たちと犬とのコミュニケーションの構築です。ブラシを掛けてあげたり、月に数度のシャンプーの時間も、子供たちが心を開いてくれるとても貴重な時間です。その時の子供たちの表情はとても豊かで、私どももつい笑顔になってしまいます。
まだあります。もっとも大きな成長は、今まで犬の側からのアプローチが多かったのですが、この犬が失明してからは、逆に子供たちのほうから積極的に犬に接するようになったことです。犬には可哀そうなことでしたが、子供たちには驚くべき成長がありました。
話が長くなって申し訳ありません。あなたが驚かれた犬の頭部に付けた輪状のものは、犬の顔面を保護する器具です。メーカーによって呼び名が違いますが、失明した犬は外に出るのを怖がるようになってしまいます。電柱や看板などに顔面を打ち付けることが良くあるからです。
この器具は、物にぶつかった時の顔面を頭部を守ってくれます。初めは嫌がりましたが、今ではすっかり慣れてリードに従って安心して散歩も出来るようになりました。
ですが、先ほどあなたに怪我を負わせてしまっていましたら、もう兼六園への入園の許可も取り消され、子供たちも悲しむことになっていたと思います。あなたが無事でいてくれたことは、私どもにとってとても有難い、幸せなことです。本当に、ご迷惑をお掛けしました。申し訳ありませんでした」
ASDの子ども達への愛情溢れる、文部科学省所管の特殊教育研究センター副所長の教授の姿は、夕香にはとても眩しく感じられました。
「先生、今日初めてお会いしたばかりなのに、不躾で礼儀も知らない女だと思われるでしょうが、先生にご相談したいことがあります」
この教授なら今の私を曝け出しても、きっとASDの子ども達と同様に真剣に向き合ってくれると夕香は信じられたのでした。
第9章 教授の回顧その1(友人の外科医の友情)
夕香の衝突な言葉に教授は一瞬戸惑ったようだったが、連れの女性に子ども達を連れて先に帰るように指示を出した。
「この度は大変ご迷惑をお掛けし、本当に申し訳ありませんでした」
女性は夕香に向かって深くお辞儀をしてから、子ども達を連れて店を出た。
「さて、私に相談とは、いったいどんなことでしょう?」
教授のさりげない言葉の陰に、出来うる限りの力を尽くす所存という優しさが滲んでいた。
「私は、博士号取得を目指して、おこがましい言い方ですが論文や学会発表に日夜励んでおります。ですが、最近自分自身に自信が無くなってしまいました。疲れもあるのかも知れませんが、『専門誌や学会に迎合した研究』という、何か自分自身が浅はかな人間のような気がして、とても落ち込んでしまいました。
今回、金沢に来ましたのは、昔訪れた兼六園や金沢の美味しい料理が急に懐かしくなり、北陸新幹線『かがやき533号』に飛び乗ってしまいました。金沢は私を元気にしてくれると思ったのです」
ここで、夕香は緊張で口の中が渇いていることに気づき、コーヒーを一口含んだ。
「先ほど先生の名刺を拝見した瞬間に思いました。先生から何か一言アドバイスを頂けたら、きっと金沢に来た目的が達せられるに違いないと。初対面の先生におすがり致しましたこと、誠に恥ずかしい限りです」
教授は静かに聴いていたが「お時間は大丈夫ですか?」と夕香に確認すると、やがて独り言のように、自らの辛く苦悩に満ちた過去を話し出した。
・・・・教授のひとり言・・・・
私は、博士号を取得してから、アメリカのモンタナ大学に留学しました。日本より進んだアメリカの大学で学び、日本の第一人者になりたかったのです。私は偉くなりたくて、世界から注目される研究者になりたくて、あなたにしか言えませんが、本当にそのことばかり考えていました。ですが、研究に真摯に向き合ってきたことは嘘ではありません。
30代半ばである大学の准教授だった私は、とても生意気だったと思います。空いている学生の机に腰を掛け、パワーポイントで得意そうに講義をしておりました。居眠りをしている学生には、大きな声で叱責しました。私の講義が聞けるだけでもありがたいと思いなさいという驕りがありました。私は近いうちに教授になり、世間から一黙置かれる存在になると確信していたのです。
そんな私に危機が訪れました。数年ぶりの同窓会で会った友人の消化器外科医に何げなく話した一言がその始まりでした。
「最近、疲れているせいか食欲がなくてね」
友人はさっそく手帳を出して、私に言いました。
「来週の水曜日の午前8時に私の病院を訪ねてくれ。受付で私の名前を言ってくれれば私が迎えに行くから。前夜の9時過ぎから飲食は控えて来るように」
当日私は彼の病院に約束の8時に行きました。9時頃には、彼の診察室で腹部の触診を受けておりました。友人は「たいしたことはないと思うけど、今日は胃部レントゲンだけ念のため撮っておこうよ」と、笑顔で言いました。
それから3日位経った昼過ぎです。友人の医師から私の携帯に連絡が入りました。
「胃のレントゲンの結果は、外科仲間の読影カンファレンスでは異常なしだけれど、私にはほんの少しだけど気になるところがあってね。胃の大湾部分は丸く膨らんでいなければならないところなんだけど、ほんの一部分だけれどその丸みが板状に見えるような気がしてね。普通なら異常なしで済ませるんだけど、お前の体のことだからね。私は必要以上に神経質になっているのかもしれないね」
結局、彼の勧めで胃カメラの検査を受けることになったのです。
友人の電話から数日経ったある日、私は彼の勤める病院の内視鏡室のベッドの上におりました。まな板の鯉です。私は喉を通過するカメラの管に、窒息するような苦しさを感じていました。
「やはり何にもないよ。私の見当違いだね。でも結果としては良かったよ」
僅か数分が、私には1時間にも感じられましたが、友人はカメラを覗き込みながら安心したように言いましたが、その時です。
「あれ、ちょっと待って!」
友人の医師は感情を押し殺したような小さな声でしたが、私には何か恐ろしいものでも見つけたような、悲鳴にも似た声に聞こえたのでした。
第10章 教授の回顧その2(スキルス性胃癌)
「あれ、ちょっと待って!」
友人は胃の表面の襞(ヒダ)の間を慎重にカメラで追っていましたが、その襞の間に2ミリ位の黒い窪みを発見したのでした。胃カメラの先についている鉗子で、友人はその部分の組織を採取しました。
それから2週間後の昼時に再度友人の彼から連絡が入りました。私はその間、不安と焦燥感それから不眠に悩まされました。
「俺だよ。この前の内視鏡の時の病理組織の結果が出たんだ。本当は病院でデータを見ながら話したいんだが、俺とおまえの仲だ。今晩駅前の居酒屋で7時頃待ってるから、来てくれないか?」
その時、私は次回の講義の資料を準備していましたが、それから仕事が手に付かず、早退して家に帰りました。妻に友人からの話しをすると、一瞬顔を引きつらせましたが、直ぐまたいつもの笑顔に戻って言いました。
「あなた、私には病気のことは分かりませんけど、今まで無理して頑張って来たんだから、少しは体を休めなさいという神様のご好意じゃないかしら」
私には勿論分かっていました。妻も相当なショックを受けたはずでした。ですが、持ち前の気丈さからわざと笑顔を作ってくれたのです。
その晩、居酒屋に定刻前に行くと、友人は店の奥の人目に付きにくいテーブルに座っていました。友人の細やかな配慮に、私はこの時点から涙が滲んでいました。
「悪いが、先にやっていたよ」
テーブルにはいくつかの料理と生ビールのグラスが二つありましたが、手は付けられておらずそのままでした。
「酒を飲みながらの、医師と患者という関係は普段はあり得ないのだけれど。まあ、お前と俺の仲だ。あまり気にすることもないだろう。先ずビールで乾杯をしてから、話しをしよう」
私はすごく結果が気になって、ビールどころではありませんでしたが、病院の陰湿な中での告知より、いくらかでも確かに気が紛れる友人のこの思いやりに感謝したのでした。グラスに注がれたビールを一気に飲み干しました。アルコールの味はしませんでした。
「結局、何かい?私は癌の患者になってしまったという訳かい?」
私は不本意ながら、いろいろ配慮してくれる友人に対し、開き直ったというような少し乱暴な言い方をしてしまいました。
「何度も言うが、この件に関しては俺とおまえの仲だから、隠し事は一切しない。ありのままを話す」
二人が周りを見渡すと、私たちの話声が聞こえる範囲にお客はいなかった。
「この間の病理検査の結果、確かに癌細胞が検出された。初めの胃のレントゲンで大湾部が少し板状に見えると話したと思うが、これはスキルス性胃がんを疑ったものなんだ。
スキルス性胃がんは発見された時は、手遅れの場合が殆んどだ。胃の筋膜層に入り込み、あっという間に広がってしまうからだ。自覚症状があっても、カメラではなかなか見つけられないのだよ。胃の表面は何ともないのだから。ただ今回は、幸運にも2ミリの窪みが見つかった。ここが原発巣で、ここから筋膜層に入り込んだと思われるんだ。
正直、5年生存率は今の医学では7%未満と言われている。しかし、お前の場合は、普通あり得ないのだが、スキル性胃がんでも初期ではないかと思っている。一般の患者さんがスキルス性胃がんを発見されたときは、ほとんど腹膜播種(ふくまくはしゅ)が見られ、ステージⅣと診断されるが、お前はきっと本当に初期で、胃の全摘も必要ないのではないかと信じている。
もし、お前の手術で私の狙い通り、初期のスキルスで胃の3分の2程度の摘出で済めば、これは学会ものだよ。それくらい、お前の癌は早期だと思う」
友人は、いつか私を貴重な症例として、学会で発表したいと考えているようだ。
私はもちろん腹が立ったが、友人には全く悪意はない。胃がんの中でも特に悪性のスキルス性胃がんの早期の可能性が高いという。もし、同窓会で受診を勧めてくれなかったら、おそらく2か月後の私は間違いなく余命数か月と宣告されただろう。
私は、不覚にも涙を禁じえなかった。この涙は、私の未来が閉ざされたという嘆きの涙なのか、あるいは友人の行為によってまた現役に戻れる可能性が残されているという喜びの涙なのか、私は友人の手を取って、声を殺して泣いた。
第11章 教授の回顧その3(命の誓い)
私には明るい未来、輝く未来が永遠に続くはずでした!それが、胃がんの中でも極めて悪性のスキルス性の胃がんに罹患しているなんて、何かの間違いだ。明日になれば、友人の外科医から悪い冗談だったと詫びの電話が入るに違いない!
駅前で外科医の友人と別れた私は、まっすぐ家に帰る気にはなれず、ひがし茶屋方面に歩き出しました。確かその近くに宇多須神社があった筈だからです。静かなところで、ただ何となく過ごしたかったのです。それに宇多須神社は、病気平癒の神社でもありました。
歩き始めた私は、まるでこの世の物とは思えない、不思議な光景を目にしていました。もちろん夜の照明が辺りを照らし出していましたが、その明かりのことではないのです。
歩道に置き去りにされた自転車、電柱、石ころ、草むらが輝いて見えるのです。ひがし茶屋街の建物や行き交う人々、そして犬までもが輝いて見えるのです。
宇多須神社の境内の灯篭、沢山の木々、神社、全てが輝いていました。私の生きている世界は、こんなに美しく眩い世界なのかと驚きました。
妻との他愛もない諍い、また同僚へのライバル意識からのジェラシー。さまざまな葛藤や不満。今の私は、それらがとても美しい出来事のように思われました。命の危機を目前にして、心を騒がす日常がとても尊く感じられたのでした。その感動で私は目頭が熱くなりました。
宇多須神社の拝殿の鈴を鳴らしながら、深く頭を垂れました。
「もし、私に生きていくことが許されるなら、今後の人生は『発達障害』の子ども達のためだけに捧げます。どうか私を生かさせてください」
次の日のやはり昼頃、友人の医師から携帯に連絡が入った。冗談だったとの話ではなく、ベッドを何とか確保できたので、来週早々入院して欲しい、手術は1日も早く行いたいとのことだった。私は、分かったと小さな声で返事をして電話を切りました。
友人達との同窓会の日から数えて28日目に、私は手術室の主役になりました。スキルス性胃がんを初めから疑った外科医の友人の尽力により、こうして短期間で手術の日を迎えることが出来たのでした。
友人は執刀医にはならず、助手として私の手術を応援してくれました。いかに医師と云えども身内や親しいものには主観が入る、そのため助手としての役目に回ったらしいのです。
手術中の私は何度も夢を見ました。金剛力士像のような恐ろしい姿形の生き物が、私に怒鳴る夢でした。
「お前は、現世ではとても驕り高ぶった生き方をしてきたようだ。お前のような奴は生かしておいても、結局世のためにはならん。私の世界に連れていき、未来永劫、お前を重労働の荷役としてこき使ってやる!」
私はその金剛力士に似た生き物の足元にすがり付き懇願するのでした。
「私が間違っておりました。今後、悔い改めます。ですから、どうか私を許してください。現世に帰してください。少しでも辛い生き方を余儀なくされている人々のためにこの人生を捧げます。誓います!誓います!」
「よし!分かった。お前が悔い改めるというのなら、試してやろう。5年の時間をくれてやる。もし、お前が変わらなければ、今度は問答無用で私の世界に連れていく」
私が麻酔から覚めた時は、ICUのベッドにいました。喉には幾本かの管が通され、私は身動きもできず苦しくてなりませんでした。看護師からの連絡で、友人の医師が手術着の上にICU室専用の白く透明な帽子と前掛けのような姿で現れ、ニコニコ顔で言いました。
「俺の言った通りだったよ。スキルス性の胃癌だったが、予想通り早期だった。だが、5年間は経過を見る必要がある。とにかく手術は大成功だったよ」
私はまだ覚醒しきれない意識の中で、夢と現実の世界の中で揺れていましたが、大成功という言葉だけはしっかりと認識できました。
第12章 教授の回顧その4(教授のその後)
やっと退院した私は、胃切除後症候群に悩まされました。例えば、食後の膨満感です。食べる量は少ないのに、腹が張り、腸の中のガスがおならとなって出るまでが苦しいのです。「すこしずつ」「よく噛み」「分けて」を実践しましたが、下痢にも悩まされました。食べ物を消化したり、働きの低下によるものだそうです。
またやっと1年を経過したころは、逆流性胃炎に悩まされました。胃の不快感や胸やけなどです、空腹時に良く起こりました。いろいろと体調の悪いことは切れ目なく襲ってきて、一時食べることが怖くなってしまった時期があるくらいです。
それでも私は命の危機の前において、これくらいで辛いなどとは言えませんでした。贅沢な悩みだと耐えることが出来ました。『5年生存率7%』という文字が毎晩のように、私を苦しめましたが、友人の外科医の『大丈夫だ。大丈夫だ!』という受診ごとの励ましが、私を何とか支えてくれました。
手術後の私は、自分で言うのも変ですが本当に変わった気がします。あれほど偉くなりたい、出世がしたいというギラギラしていた私の欲望はすっかり消えました。朝、目覚めると、今日も生きているという感謝に、合掌せずにはおられないようになりました。妻からも表情が柔らかくなり、今までのあなたではないようだとよく言われました。
私は大きな手術の後ではありましたが、ひと月の休暇の後、専門誌への投稿や学会発表を精力的にこなしました。講演の依頼があると必ず受けました。講演料などどうでも良いことでした。
私は温めていた、時期尚早と思われる論文や『特殊教育』の世界では名の知れた研究者の方に迎合したと思われるような論文までも投稿あるいは学会発表を致しました。
私には、自らの命の期限がいつまでなのか、数か月先なのかあるいは1年先なのか、それが分からない以上悠長に構えてはいられなかったのでした。友人の外科医も5年間は予後をしっかり追跡しなければと言っていましたし、手術中の金剛力士も私を監視しているかも知れないという子どもじみた不安も私の背中を押しました。謙虚な心で研究にまい進すると宇多須神社にも約束してありました。
不安を追い払うかのように、私は研究に没頭し、そして専門誌への投稿や学会への発表、そして講演活動と時間の浪費を避けた生き方を続けました。
このような毎日を繰り返しながら、いつしか友人の外科医が言った5年間の「仮釈放」は無事何事もなく終了しました。それから私の夢の中で叫ぶ恐怖の金剛力士の姿も消えました。
「大西、おめでとう!私も本当にうれしい!」
友人の外科医は立場を忘れて、瞼を診察室のテーブルの隅に置かれてティッシュで拭いました。
ちょうどその頃です。国立特殊教育研究センターの所長から1通の封書が自宅に速達で届きました。
「当研究センターにて、貴殿が快適に研究できる環境を用意させて頂きますので、『教授』として招聘させて頂きたく、臥してお願いを申し上げます」
簡単に表すと以上のような文面でした。妻は、喜びました。術後の経過も太鼓判を押されて、更に「国立の特殊教育研究センター」から教授としての招聘ですから当然でした。大学の要職にある何人かの方に相談させて頂きましたが、誰一人として異を唱える人はいませんでした。
その後は胃の方も順調で、気が付くと、あっという間に20年近くをこの研究センターで過ごしていました。ですが、あの手術前後の私の気持ちにいささかのぶれもないと自負しています。そうして、今日あなたと偶然からこうして相対している訳です。私は、この出会いにとても運命的なものを感じています。
・・・・教授の独り言は終わりました・・・・
静かに教授の話しを聴いていた夕香は、大きな瞳に溢れている涙を拭うことも忘れていました。
「私も博士号を取得する前やそれ以降も、あなたと同じようにいろんなことで悩んだりしました。ですが、罹患してからの私は、大概の悩みにはそれほど重要な問題はないと思えるようになりました。
私は、このスキルス性胃がんという病気にならなくとも、どこかの大学で教授になっていたかも知れません。ですが、学生にはすこぶる評判が悪かったと思います。
『あの教授の授業だけは、出来ることなら欠席したい。あの高慢さには耐えられない』
そんな陰口も私には届かず、退官まで孤独な授業を繰り返していたことでしょう。今の私は、あのASDの子ども達と週2日は共に過ごしています。私が教えることより、学ぶことの方が多いくらいです。あの子ども達と一緒に生きていられることが、私は嬉しくてなりません。
さて、長くなりましたが、あなたの悩みに少しは答えられたでしょうか?
迎合という言葉の意味をあなたは誤解されています。必要な研究なら、誰に対しても余計な気を使うことなど愚かなことです。専門誌も学会も評価してくれるなら、それは迎合とは言いません。あなたの力、あなたの人間性なのです。胸を張って堂々と生きて下さい。
現代社会のすべては、今や一年一昔です。時流に乗ることなど誰にも出来るものではありません。あなたには自信を持って、明日を見つめながら研究して欲しいと、私は心から願っています」
教授は夕香のために、辛く苦しい、そして自身の恥ずかしい部分までも隠さずに話してくれたのでした。夕香は感動で胸が一杯になりました。
第13章 それからの夕香(最終章)
あの日、帰りの北陸新幹線の中で、私は祖父の手紙のことを思い出しました。あの手紙は、実家のタンスの中に保管しています。ですが、忘れたことはありません。今回の大西教授との尊い出会いは、祖父のお陰ではないかと思いました。
突き抜けるように澄み切った金沢の青く高い空の上から、祖父は私を見守り、そして教授に会わせてくれたとしか思えません。込み上げてくる嗚咽に、私は誰もいないデッキに走り、しばらく泣き続けました。
- 世界で一番大好きな夕香ちゃんへ -
じいじは 夕香ちゃんが世界で一番大好きです
じいじは 夕香ちゃんが大きくなるまで傍にいたいです
じいじは 夕香ちゃんの成人式が見たいです
じいじは 来年70歳 いつまでも生きていられないのです
夕香ちゃんが ずっと元気で
そして幸せであるよう祈っています
もし じいじが生きていなくても いつも高い空の上から
夕香ちゃんを見守っています
泣きたいときは 思いきり泣いてください
じいじが守ってあげます
やさしく こころも姿も
美しい人になってください じいじより
私が2歳の時に書いてくれた祖父の想いは、20数年の時を経てもなお生き続けてくれたのでした。私はとめどなく頬を伝う涙のままに、祖父に向かって誓いました。
〇時間を浪費しないこと
20代半ばの私であっても、命の危機が訪れる可能性は無視できないことから、時間の浪費に充分留意すること。若い女性の罹患率の高い乳がん・子宮がんの検診を可能な限り毎年受けること。(このことは大西教授の友人の外科医の口癖という)
〇障害のある子供たちの将来に明かりを灯すこと
発達障害を研究テーマとする私の生き方の基本は「子ども達が社会に出て、いかに生きて行くか?そのための支援に生涯をかけて取り組むこと。子ども達が将来にわたって生きにくさを感じることなく、生活ができる環境作りのために尽力すること。研究室に籠ることなく、子ども達と出来るだけ時間を共有すること。
〇大西教授のように命の尊さに感謝し、地位や金銭への欲にとらわれずに真摯に生きて行くこと。
(夕香それからの10年)
兼六園で「国立特殊教育研究センター」の大西教授と出会ってから10年の歳月が流れました。現在の私は大西教授に誘われ、研究センターの准教授として、やはり発達障害の研究に明け暮れています。充実した日々です。子ども達とも、あの日のように犬を連れて兼六園を散歩しています。犬種は、ウェルシュコーギーです。
もう一つ報告があります。一昨年この研究センターの総務課の方と縁あって結婚しました。今、私の腕の中で眠る陽菜(はるな)は、10ヶ月になります。私は研究に追われて晩婚でしたので、孫を授かるのは多分還暦と古希の間位かなと思っています。祖父が幼い私に書いたように、私もいつか孫に手紙を書こうと思っています。
最後に、これからも家族と同じくらいに、子ども達と時間を共有していきたいと心から願っています。
兼六園は、私を悔いのない人生へと導いてくれました。この感謝の気持ちを私は、生涯忘れることはありません。
【大西教授と友人の外科医の後日談】
大西教授は術後20年近くの時を経ても、あの恐ろしい金剛力士が夢に現れることがあり、生きることの喜びを再確認させてくれるという。
また、大西教授の友人の外科医が日本消化器外科学会で、大西教授の症例を発表したとき、演壇の前に数名の質問者が集まり、友人が板状に見えたという画像を真剣に見つめて皆口々に言ったという。
― この画像で、スキルス性胃がんを疑うのなら、私たちは8割の受検者に要精密検査の指示を出さなければならない! -
おわり