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創作の小部屋「親友の3倍以上の歳月を生きて」

2021年07月23日

 親友の3倍以上の歳月を生きて

もう七月の半ばを過ぎて暑い日が続いています。本日、いよいよ東京五輪の開会式が行われます。今回の五輪の開催については、いろんな意見がありますが、私個人の意見を言わせてもらえれば、積極的に賛成する気にはなれません。コロナの感染拡大が心配だからです。

話しは変わりますが、エンゼルスの大谷選手のホームラン競争ですが、もちろん日本人として誇りであり、ぜひホームラン王のタイトルを取って欲しいと思っています。ですが、素人の私が言うのは的外れかもしれませんが、そればかりを狙いに行くとスイングが雑になりはしないかと危惧してしまいます。老婆心でしょうか?

  親友の3倍以上の歳月を生きて

私は親友のお墓参りを続けて、約半世紀になります。一度も命日のお墓参りは欠かしたことがありません。

私は来月、古希を迎えます。洗面台の鏡に写った私の姿は、それに相応しい姿をしていて、顔には無数のシミがあり、ほうれい線はくっきり、頭頂部は透けています。おまけに首元には、かつては無かったいくつものイボがある始末です。

栃木県の片田舎に生まれた私は、高校卒業後の昭和40年代の中ごろ、親友と一緒に東京のとある大手の企業に就職しました。その当時は「金の卵」ともてはやされた、まだ高度経済成長期でした。入社式の前日の夕方、私と友人は大きなバックを抱えて上京しました。布団や衣類は予め寮に送っておいたので荷物はそれだけでした。ですが、大きな希望はそのバックにも余るほどでした。夕方になると闇に閉ざされる田舎と違って、電車の車窓から見える大都会の街並みは、とてもネオンが眩しかったのを覚えています。

初めは二人とも同じ寮でしたが、二年くらいして親友は別の支社に移動し、同時に寮も変わりました。私は池上の本門寺近くでの寮生活を続けておりました。

「池上線」というヒット曲が生まれたのは、私たちが上京してから恐らく6~7年後のことだったと思います。当時私は、地方出身者の若者が集うサークルに入っており、洗足池などに良く出かけたものです。当然、池上線をよく利用しておりました。車両は、「池上線」の歌詞にあるように隙間風が入るような古い電車でした。

親友は、一緒に上京し、その数年後に海で亡くなりました。中学時代からの付き合いで、高校時代はよくお互いの家を行き来しておりました。私の母が作った夕飯を一緒に食べ、私の部屋で夜遅くまで語り合ったものでした。深夜、一つしかない私の布団にくるまり、一緒に寝たこともあります。勘違いしないでください。当時、私には大好きなガールフレンドがおりました。

昭和40年代後半の、まだ七月に入ったばかりだというのに、随分と暑い日が続いたある日のことです。私は会社の机の椅子に座り、昼の休憩を取っていました。その時、いきなり私の横の電話が鳴ったのです。電話の向こう側から、懐かしい田舎の同級生の声が聞こえてきました。

つい先日、親友が実家の栃木に帰り、仲の良い同級生と茨城の海に海水浴に行き、行方不明になったという余りにも衝撃的な内容でした。一緒に行った同級生が、夕方近く帰ろうとして親友を探したが姿が見えなかったそうです。ロッカーの中を確認すると、脱いだ服はまだそのままだったとのことでした。

どこか島のような所で救助を待っているのではないかと問いましたが、電話の主からは、周りにはそのような所はない筈だとの返事でした。

人間の心とは、何と残酷で冷たいものでしょう!電話をかけてきた同級生の声からは、少しも悲壮感は感じられず、むしろ声は弾んでいるように感じられました。受話器を受けているその時の私も、一瞬だったかもしれませんが、また同じような気持ちだったのを否定出来ません。悲しみとは真逆に、私の心は高揚したのでした。

私は会社の上司に訳を話し、早退と休暇の許可をもらい帰省しました。実家に帰ると直ぐ、彼の家に急ぎました。親戚の人や近所の人で溢れ返っておりました。彼の母親は憔悴しきっており、焦点の定まらない眼差しをしておりました。

翌日、地元の漁師の尊い行為により、親友は実家に帰ることが出来ました。母親のたっての願いにより、私は棺の中の親友の顔を覗き込みました。今でも、鮮明に覚えています。漁船に引き揚げられたばかりの親友の肌の色は真っ白だったと母親が話してくれましたが、七月の酷暑が彼の皮膚の色を黒く変えてしまっていました。一瞬分かりませんでしたが、間違いなく親友でした。

私は耐えられずに、大きな声で泣きながら、近くの芝畑まで行き、そこに倒れ込みました。そのまま、誰かが探しに来るまで私は泣き続けました。

その晩、私は実家で寝ましたが、眠りにつくことが出来ず、台所で父親とビールを飲みました。ですが、私の体はアルコールを受け付けませんでした。床に吹き出しました。

東京の職場に戻ってからも、私は毎夜不眠に悩まされました。少し眠ったかと思うと、うなされて、その後は眠れない毎日という毎日でした。そんな夜がしばらく続いたある日の仕事中の出来事でした。急に心臓が激しく脈打ち、立っていられなくなり、今にも死ぬのではないかという恐怖におののきました。

誰かがコップに水を汲んでくれましたが、真っ青な顔をした私は、両腕の中に顔をうずめておりました。どれくらい経ったでしょうか?やっと落ち着くことが出来ました。上司の指示で病院に行くと、医師は血圧がだいぶ高いと言って、私の心を和らげる薬を処方してくれました。

しかし、その日から私は電車や飛行機、聴衆が静まり返る講演会などが恐ろしくなりました。叫びだしたくなるような、そこから逃げ出したしたくなるような衝動に襲われ、そして、あの時の悪夢が甦り、私の心臓は狂ったように打ち続けるのです。今まで、仕事を普通にしていても、或いは仲間と会話を楽しんでいても、不意にその悪夢が私を襲うのです。私は怯えて、うつ病のような症状に陥りました。

それでも、私は悪夢と必死に戦いました。悪夢が消え冷静になると私は、その度ごとに親友に詫びておりました。親友が亡くなったかも知れないとの田舎の同級生からの電話の時、私は悲しむどころか、一時なりとも人間として恥ずべき心の持ち主でした。その醜さを、悪夢が私に強烈な反省をその度ごとに迫るのです。

私のこの症状は定年まで少しも改善することはありませんでした。誰にも相談できずにいました。両親や兄弟、後に結婚した妻にも話せませんでした。上司や職場の人は、私の精神が病んでいると思ったようです。私が近くにいるのを知っていて「あの人は少し頭がおかしい」と言った先輩もおりました。屈辱でしたが、私は黙って耐えました。数年して転勤した職場でも同じような状況でした。

この状態は年を重ねるごとに確かに回数は減りましたが、定年になり、やっと仕事の緊張や人間関係の煩わしさから解放されると、この恐怖心も徐々に消えていきました。私には長く辛い年月でした。多分パニック障害だったと思われます。

冒頭に記しましたが、私は来月古希を迎えます。既に、親友の3倍以上も生きております。亡くなった当時、親友は21歳になったばかりでした。若き青春の炎を太平洋の荒波の中で儚くも消し去った、彼の悔しさは如何ばかりだったことでしょう。

私のこれまでの人生も決して平たんな道ばかりではありませんでした。仕事を遂行する上での、上司の邪魔や嫌がらせ、また同僚や後輩との人間関係での悩み等、挙げたらキリがありません。ある時などは高速道路を走りながら、このまま路肩に突っ込んでしまったら楽になるのではないかと考えたりもしました。

ですが親友は、結婚はおろか恋愛の経験もなかったのです。それに引き換え、私の苦しさなど親友の無念さと比べたら、何のこれしきと思わざるを得ませんでした。私は結婚し3人の子供もいるのです。何と贅沢で幸せなことかとその度思いました。

私は子供を持ってから、いつも考えていたのは、還暦まで、子ども達が成人するまで、とにかくそれまでは生きていたいということでした。それが還暦を過ぎ、来月は古希を迎えるという、親友の3倍よりも長く生きています。

今の私は幼い孫に囲まれ、とても幸せな人生を送っております。いつの日か、私も親友の世界で再会する日が訪れることでしょう。その時は、あの時は本当に申し訳なかったと、心から詫びたいと思っています。親友の面影は半世紀を経ても少しも変わりませんが、今の私の姿を見て、私だと認識してくれるでしょうか。それが、一番心配です。

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